[レビュー][旧記事]『明日の英語教育を考える』をめぐる「論争」で学習英文法シンポジウムをさらにふり返る。
かつて雑誌「教育」(国土社)において、黒川泰男『明日の英語教育を考える』(1979年、三友社)の書評に端を発する、号をまたいでの「論争」があった(菅野 1980; 小山内 1980; 早川 1980)。資料整理中に見つけて読み返してみると、30年以上前のやり取りであるにもかかわらず、先日の学習英文法シンポジウム(の提案・議論)が思い返されるところが少なくなかったのでまとめてみる次第(「われわれは歴史を知らな過ぎる」というコメントもあったので)。長文、ご容赦願いたい。
文脈の共有も兼ねて、発端となった菅野(1980)の冒頭を引用する。「『詩的な文法教材』はちっとも素敵ではない」と題する書評で、菅野(1980: 104)は次のように述べる(下線は引用者による)。
学習指導要領がかわり、1981年度から中学の英語の授業時数が週三時間になる。高校の授業内容も中学に近づけられようとしている。現場はとまどい、不安におち入っている。週五時間から四時間になったときとはちがい、授業の質が、授業の質的転換が求められているように思える。
国民教育の側からいえば、新しい質の内容と方法を提示するチャンスであるが、それができかねている。残念なことである。
新英研、教科研の部会、それぞれの地域の民間教育研究団体の部会など全国には数多くの研究・実践の運動体がある。それぞれの団体が営々とつみ重ねてきたものがある。それらが検討され、ねりあげられて共通の財産になり、国民教育としての外国語教育の内容と方法が創りだされなければならないし、それだけの力ができかけているように思う。だが、それぞれの研究・実践の成果は、それぞれにあるとしかいえない現状である。
大声の自己主張や批難のしあいではなく、具体的な実践をとおして、じっくりと討論することがいま必要であり、その場が求められている。…
「大声の自己主張や批難のしあいではなく、具体的な実践をとおして、じっくりと討論すること」が、「きっかけ」としての学習英文法シンポジウムを終えたわれわれにも求められている。
菅野(1980: 104-105)は、英語教育に対する自らの考えを次のように述べる。
「言語活動とは、社会的発達のなかで形成された言語による人々のコミュニケーション過程のことである。言語は、コミュニケーション手段の音声的・語彙的・文法的体系である」(『ソビエト教育科学辞典』明治図書、昭38、428頁)言語と言語活動とをこのようにとらえるなら、外国語教育の内容は、ひとことでいえば、その外国語を使った言語活動を保障することであり、そのために言語活動の手段である言語、つまりその外国語の音声の体系、語彙の体系、文法の体系を生徒に所有させることである。
その上で菅野(1980: 105)は、「幼児が母国語を習得するのと同じように、外国語学習においても言語活動のなかで言語を習得するという方法」ではなく、「言語を体系ととらえ、それを系統的に教授=学習する方法」を選ぶ立場にたつ(「母国語」云々についてはここではツッ込まないことにする)。黒川(1979)についての細かい批評はここでは省き、菅野(1980)がこの立場の「優位性」について述べている部分を引いてみよう。
英文法の教授=学習が無益であることの証しとして、重箱の隅をほじくるが如き些細なこととしてよく引き合いに出される「三単現のS」を取り上げよう。
主語の人称や数に呼応して述語が形をかえることは日本語にはない。だから日本人にとってはやっかいなことであり、大学生になってもなかなか身につかないことのようである。また、英語の述語の体系からいうと「些細なこと」でもなさそうである。教授=学習の順にそって述べよう。This is a pen.のごとく述語にbeが含まれるものから始めるにしろ、My father works at a bank.のように述語が(一般)動詞でできているものから始めるにしても、最初は、beが主語の人称に従ってam, are, isと変化するのに、workは、work, worksと変化する。ここでは「三人称形のS」として理解される。これで「S」の教授=学習は終わったのではない。始まったばかりである。主語が複数形になると、人称による対立はなくなり、すべてworkになる。「三人称単数形のS」の特異性が目立ってくる。
過去形になると、人称・数によるちがいはなく、すべてworkedである。普通相のなかで「三人称・単数・現在」だけが特別の形をとらされている。「三単現のS」という用語がやっとりかいされる。これまでに三回定義がかわり、そのたびに他の形と比較され、その特徴がはっきりしてきた。さらに進行形や完了形be wooking(ママ。workingの誤り−−引用者), have worked, have been workinと比較される。
- My father works at a bank.
- My father is working at a bank.
ここでは形のちがいが相(Aspect)の対立を生みだしている。さらに命令法、仮定法へと進む。つまり「三単現のS」は英語の述語の人称・数、時制、相、法(Mood)、態(Voice)の体系のなかでその独自性を主張して存在しているのであり、孤立して存在しているのではない。こう考えると「三単現のS」は中学一年で学習したといえるものではない。レベルをかえて、その都度新鮮に教授=学習される。わたしの属している研究会では「復習」を同じレベルでくりかえすことではないといっている。
シンポジウムでも流行ことばのように「三単現」に言及があった。「Building blocksではなくspiralで」というような意見は出ていたが、「レベルをかえて、その都度新鮮に教授=学習される」という観点がシンポジウム参加者にどの程度共有されていたかは分からない(もっとも菅野(1980)が、文法概念・知識の形成過程をどのように動的なものと捉えているかも十分には分からないが)。
さらに菅野(1980: 108)の次の指摘は、大津先生が(特に小学校外国語活動などに対して)懸念を示したことに通ずるように思う(下線は引用者による)。
言語を体系としてとらえず、それぞれの項目を、他との関係を無視して、孤立したものとしてとらえたとき、教師はそれぞれの項目をその場でしか扱えないので、どうしてもその場その場で完成させようとする。いわゆる完全主義におち入ってしまう。復習も同じことを同じレベルでくりかえすことになる。または、言語以外のものをもちだしてくる。たとえば「遊び」である。安易に生活をもちだしたりする。その結果、生徒の意識や努力目標を、言語の学習から他にむけさせてしまう。
…(中略)…
中学の英語が週三時間になる。その対策はますます言語活動の重視である。より多くの生徒が落ちこぼれるのは目に見えている。それに対応して高校の英語の多様化である。形式的にはすべての国民に英語教育を開放したのだが、実質的にはごく少数のものにしか習得できないようにしている。そのために検定教科書は言語活動の論理で、言語学習の系統性をゆがめている。ゆがめられた貧弱な言語に支えられる言語活動も当然のこととして幼稚で、うすっぺらなものにならざるを得ない。その言語活動のなかで一定の思想教育をしようとしている。わたしたちはこれに反対している。当然のこととして、この思想教育に反対しなければならず、言語活動の内容(題材)を国民教育の名にふさわしいものにしなければならない。
ただ菅野(1980)には、田地野先生の言葉を借りれば(processとしてはともかくproductとしては)グローバル・エラーはもちろん、ローカル・エラーさえ許容しない調子が感じられなくもない。それもあって(黒川(1979)を読んでいれば余計に)書評として著者の言わんとするところをきちんとappreciateしていると言えるのかというツッコミはある。
小山内(1980)は二ヶ月後の同誌において、菅野(1980)が「英語教育の内容と構造とを考察する上で、言語活動の教育と言語(体系)の教育とを区別し、言語体系を所有することなしに言語活動はあり得ないことを、正しく述べている」と評しつつ、黒川と菅野の論について次のように述べる(小山内 1980: 123-124)。
じつは、残念ながら、黒川氏の教材論には、いま菅野氏の言葉を借りて述べた二つの点が不明確である。たとえば、もし英文法教育の一環として五文型をとりあげるのであれば、その教育内容は文法の体系にもとづいて創り出されなければならないであろう。また、もし五文型学習の結果としての英詩学習であるなら、そこには詩そのもののの鑑賞も含められて当然である。このどちらの点でも徹底を欠いていることが、菅野氏の批判の誘因となったのであろう。
黒川氏は、中学生や高校生の英語学習意欲は、言語それ自体にたいする知的探究心よりは、言語が表わす事柄への興味・関心によって支えられる、と一貫して考えている。たとえば、つぎに引く一文は、黒川氏のこのような考え方をよく表わしているであろう。
「(中学生の)外国語への知的要求が、言語学的に一歩一歩踏み固める手がたさよりは、書かれた言葉・言われた言葉の中味について三歩も五歩も先のほうを見ようとする。母国語の学習で獲得された知識の総体が、そうした知的要求の機動力となって機能するのである(黒川泰男著『英語教育の今日と明日』161頁、ほるぷ新書)。
私見では、言葉というものについてのこのような認識のしかたは、言語活動の教材論の領域で大きな力を発揮するであろう。事実、黒川氏は、このような認識の上にたって、いく冊かの英文教材集を世に問うている。そして、これらの教材集は多くの英語教師に受け入れられているのである。
…(中略)…
言語活動と言語とは、基本的な性格において異なる以上、そのちがいは言語教育の教材論にも波及する。菅野氏の書評にたち返るなら、菅野氏は言語の教育の領域における教材論の論理で、黒川氏の教材論を批判している。黒川氏の教材論は、言語活動の教育の領域における論理に貫かれているから、これはかみ合った議論とはいえない。しかし、黒川氏の実践にも、両者の区別が分明でない点が見られ、かみ合わない議論を誘発する遠因となっている。
小山内(1980)は次いで「問題を英語文法体系の教育に限定」し、「よい内容の教材」は次の二つの条件を満たすものだと述べる。それぞれについての解説とあわせて引用する(小山内 1980: 125)。
①その文法教材を学習すること自体が生徒にとって楽しい内容になっていること。
②学習した文法知識が言語活動の強化に役立つような内容になっていること。
第一の条件は、学習の対象が英文法である以上、その内容はあくまで英文法の体系それ自体であることから導き出されるものである。この条件を満たす鍵は、とりあげる文法項目(たとえば、「目的語をふたつとる述語」というようないい方は文法項目を指していると考える)について、どのような文法事実を選択するかにある。
第二の条件は、生徒のコミュニケーション意欲にたいする配慮という観点から出てくるものである。どの生徒も、英語による言語活動にたいして積極的な意欲をもっている。この意欲を支え、さらに発展させることに、英文法の教育は寄与しなければならない、と考えるのである。したがって、この条件を満たすには、選択した文法事実について、提示の方法、練習の体系などに工夫を凝らす必要がある。
私も「言語それ自体にたいする知的探究心」を呼び起こす授業プログラムを開発したい、その方法や原理を明らかにしていきたいと考える立場ではあるが、同時にそれが言語好きの独り相撲になってはいけないと意識してもいる。その意味で菅野(1980)や小山内(1980)の想定はナイーブに過ぎる気がしないでもない。単に復古主義・懐古趣味として「学校英文法」を論じているのだと思われないためにも、先日のシンポジウムの登壇者(とおそらくは参加者の大半)も基本的には言語(英語)・(英)文法を愛する者たちだということは留意しておくべきことかもしれない。
小山内(1980)は、「文法事実の選択」について菅野(1980)が示した「目的語をふたつとる述語」の教授=学習の内容の概要の体系性と処理手続きの一貫性を認める一方で、次のように述べる(下線は引用者による。太字は原文では傍点)。
しかし、わたしは、菅野氏の「文法体系」のなかで、いくつかの重要な文法事実が見落とされているような気がしてならない。そこに過度の一般化が行なわれていないかという点がきになるのである。たとえば、菅野氏は、Mr. Smith gave the boy a book.と、Mrs. Smith bought the girl a doll.とをあげて、間接目的語が、前者では「義務的」、後者では「任意」と述べているが、間接目的語の省略可能性はどちらの文にも等しくあるように思われる。このことよりも、間接目的語は省略しても文の残りの部分の意味や機能には影響しないが、直接目的語の除去は文意を大きく変える(Mr. Smith gave the boy. Mrs. Smith bought the girl.は元の文とまったくちがう内容を示す)という事実に注意する必要があるのではないだろうか。
また、間接目的語はふつう有生でかつ短く、直接目的語はふつう具体物であるという事実をどう扱うのかという問題もある。さらに複雑な問題としては、いくつかの動詞に見られるグループ間の移動の問題がある(たとえば、leaveは前置詞句にtoもforもとるし、doはつぎにどんな名詞がくるかによって、toかforかを区別する)。
たしかに、複雑な言語現象から、体系とか構造とかいわれるものをとり出すのは一つの楽しい仕事である。誰しもが、現象を、簡潔に、首尾一貫した論理で、説き尽くすことを望んでいる。しかし、そこで見落としてはならない事実まで見落としてしまうと、言語事実から遊離した、観念的な文法規則だけが残される危険性があるのである。
わたしは、先にあげた二つの条件を満たす英文法教材を創る確実な方法は、生徒のなぜという疑問から出発することだと考えている。ここから出発して、文法事実を精査し、その結果を確実に生徒のものにすべく、質問、説明、練習、ゲーム等を有機的に組み合わせた教材を目指すのである。
前の記事でas … asについて指摘したように、私が「単純化」等の主張に対して最も強く懸念するのもこの点である。
これまでの引用からも窺えるように、菅野(1980)と小山内(1980)は「言語(体系)の教育」と「言語活動」を明確に区別する立場である。その点では軌を一にするのだが、早川(1980)はさらに4ヶ月後、両論に引き付けてこの「言語活動」という概念自体を考察した。これがなかなか示唆に富む。早川(1980)の「言語活動」に対する考え方がよく表れている部分のみを引用する(早川 1980: 90, 94-97)。
指導要領の「言語活動」という概念が、欠くべからざる生徒の諸活動を切り捨て、生徒の意欲を奪っているという事実は、その概念規定それ自体が誤りだからである。指導要領は、ことばを使う個人の心理的・認識的・行動的側面をまったく無視している。「言語活動」の一つだと言われてきたパターン・プラクティスに、このことがもっとも如実にあらわれている。
- I have a book in my hand.
- You have a pen in your right hand.
- My sister has a racket in her right hand.
- My father has a gun in his left hand.
この練習は、話し相手である生徒の要求や感情や興味とどう結びつくのだろう。指導要領でいう「言語活動」の規定では、たとえどんな内容の文であろうと生徒の口から発せられるものはすべて「言語活動」なのである。父が持っている銃が狩猟のためのものなのか戦争のためのものなのか、そんなことはどうでもよいのである。
…(中略)…
「言語活動」中心の考えでは、日本語は障害物でしかないが、われわれの考えのように「言語の」学習も組み入れるならば、「外国語のこのような意識的・意図的習得が母語の発達の一定の水準に依拠する」(直前でヴィゴツキー『思考と言語』を引用している――引用者)すなわち、自覚的・意図的に英語を学ぼうとするとき、日本語そのものや日本語によって養われた類推力・表現力がむしろ英語学習の基礎ともいえる。われわれの立場に立たない限り、「英語学習を通して日本語を理解し直す」ことはできない。
…(中略)…
言語学での「言語」と英語教育における「言語」とは二点で大きく異なる。一つは生徒の能力に応じ言語事実を曲げない範囲での簡略化を行なうこと、もう一つは、日本人が英語を学ぶのであるから、日本語や日本文化の対照点を鮮明にすることである。
同様に、言語学の「言語活動」と英語教育学での「言語活動」とはいくつかの点で異なる。
前にも述べたように「言語活動」とは主体的活動である。それは「言語」の学習で得られた知識を実践する場だというだけでは不十分である。知識の応用・実践が「言語活動」だとするならば、和文英訳も「言語活動」と呼べる。和文英訳は英語学習においてきわめて重要な活動ではあるが、純粋に主体的活動とはいえない。そこに書かれる英文の内容は書き手が本当に書きたい内容とは異なる場合もしばしばある。和文英訳は「言語活動」とはいえない。「言語活動」が主体的であるかぎり、そこには主体の思考過程が必ずふくまれる。
…(中略)…
この観点からすると、「言語活動」のための教材に限らず、「言語」を教えるための教材や例文にも生徒の思考や生活・知識とかかわったものを日ごろから生徒に提示することが、「言語活動」の心的基盤をつくるといえる(この点において、菅野氏の黒川氏にたいする批判は正しくない)。
シンポジウムで示されたいくつかの具体的提案は、学習者が主体的に産出するための入口の提供を意図するものだと理解したし、そうなり得ると私は思っているが、仮にそれが「ことばを使う個人の心理的・認識的・行動的側面を」無視するものだと捉えられてしまうとしたら不幸なことだ。しかし、そう思わせないようにする理論と実践の「うねり」が、「きっかけ」としての学習英文法シンポジウムを終えたわれわれに求められているのだろう。
文献:
- 小山内洸(1980)「英文法教育の意義と方法:黒川泰男『明日の英語教育を考える』の書評を読んで」『教育』〔No. 387〕国土社,pp. 121-127.
- 菅野冨士雄(1980)「『詩的な文法教材』はちっとも素敵ではない」『教育』〔No. 385〕国土社,pp. 104-110.
- 黒川泰男(1979)『明日の英語教育を考える』三友社
- 早川勇「『言語活動』という言葉の裏にあるもの」『教育』〔No. 392〕国土社,pp. 88-97.