[雑感][旧記事]「形が違えば意味が違う」のその先へ。
以前Twitterで流れてきた「have toとmustは同じ意味なのに…」に触発されての投稿。書きかけで放置していた。来月初めの一斉更新企画まで取っておいてもよかったけれど、台風の間に間に。
このつぶやきを目にした時,mustとhave toについては「厳密にはmustとhave toは『同じ意味』じゃない…。無生物主語のときは一応別として、mustは話し手・書き手の主観的判断としての義務だから、中立的に義務の存在を報告するhave toとは用いる文脈が自ずと違ってくる」とツッコミを入れた。
例えば,「僕の彼女は10時までに家に帰らなければならない。ばかげていると思う」と彼女の門限に不満を言う彼氏が用いるのは(b)であって,(a)ではない(大竹 2000: 75-76)。
(a) My girlfriend must be home by ten: I think it’s ridiculous.
(b) My girlfriend has to be home by ten: I think it’s ridiculous.
逆に,「自分が食べておいしかったケーキを相手にもぜひ食べてほしい」という場合は(c)を用いるべきで,(d)は不自然である(佐藤・田中 2009: 148)。
(c) This cake is so delicious. You must eat it.
(d) This cake is so delicious. You have to eat it.
このmustとhave toや,willとbe going to,あるいは受動態と能動態の文などについて誰かが「意味が同じ(と習った)」と言うのを目にするたびに,同じ経験をしてきた者として同情申し上げる一方で,形が違うのに「同じ意味」と片付けてしまう説明には疑問を持たないのだろうかと考える。ある事象を様々な形式で表現し得るのは確かに言語の重要な一側面だが,仮に全く同じ意味であったとすれば,そもそも2つ(以上)の形式が存在する意味は何だろうか。重要なのは,「同じ」がどういう意味で同じなのかということであり,その類似性の中で2つを分ける「違い」は何なのかということであろう。コカコーラを飲みたがっている時にペプシを出して「『同じ』コーラだろ」とは言いたくもないし,言われたくもない。同時に,決まった日本語訳だけ与えて,「ニュアンスの違いは話し言葉・書き言葉で触れるインプットの中から自分で拾って」とするやり方も私には納得し難い。
そういう私も、「形が違えば意味が違う」ということをしみじみ刻んだのはBolinger (1977)の中右実訳(1981)などを読んで以降の話だ。Bolinger (1977)は体系的でも分かりやすくもないが,例文が豊富で,添えられた説明も直観に訴えかけるというか,意味論的に「なるほど」と思わせる記述が多い。例えば,
It is the openness of any that makes it appropriate for new information and neutral where presupposition is concerned. Neg … any denies an affirmation. Aff… no affirms a negation. The positive verb conveys a positive attitude; Aff … no is confident, downright, certain – most appropriate for use with negations that are ‘just naturally that way’. In [234 the speaker’s attitude does not change on passing from the first verb to the second; in [235] it does:
[234] I will sit down and say nothing.
[235] I will sit down and not say anything.
というnot … anyとnoの違いの説明(Bolinger 1977: 57; 中右訳 1981: 116。太字は引用者による)。前章のanyとsomeについての考察(特にanyの「任意性」に関する考察),およびこの章で234-235に至るまでの例文・解説を踏まえての説明であるので,この部分だけでどう映るか分からないが,私はこれでかなり腑に落ちたところがある。次の,noを用いると不自然になる例も見るとより分かりやすいが,両方とも自然な英文である場合こそニュアンスの違いの認識が重要だと思う(Bolinger 1977: 53; 中右訳 1981: 107)。
[173] I’m eating, and getting no nourishment.
[174] ?I’m eating, and getting no toothache!
[175] I’m eating, and not getting any toothache!
さらに、「形が違えば意味が違う」という考え方は,語用論的推論にも繋がる重要な洞察である。例えば,次の2つの文。命題的には同じ意味を伝えるが,ご承知の通り,(e)は「窓を閉めてくれますか」という依頼の意味になる。一方,(f)はそのまま「窓を閉める能力」を問う疑問となる。
(e) Can you close the window?
(f) Are you able to close the window?
このことは,neo-GriceanのHornの立場に立つと「語用論的分業」(Division of Pragmatic Labor, DPL)という概念で説明できる。それは,「同じ意味領域を覆う2つの表現があるとき,より簡潔または語彙化されている表現はR推論を経て無標の,ステレオタイプ的な意味・用法・状況と結び付けられ,より複雑ないしは冗長な表現はQ推論を経て有標の意味に結び付けられる傾向がある」というものである(Horn 1989: 197; 2004: 16; 加藤 2005: 167。R推論やQ推論について詳しくは,文法教育の内容構成の基盤として、その適用可能性を論じた亘理(2007)を参照されたい)。要するに,2つ(以上)の表現が「同じ意味」だとしても,より簡潔なほうが典型的・常識的な解釈と結びつき,そうじゃない方が特殊な解釈・状況を要求するということだ((f)の場合,錆び切って動かない窓が問題になっている状況とか)。
したがって,どちらも彼がその機械を停止させたことに変わりはないにせよ,stopのみの簡潔な形式にとどめずgot使役の形を用いた(h)は,プラグを抜いて強制的に止めたとか,機械に靴を投げ込んで止めたとか,そういう状況を匂わせる(Horn 2004: 16-17)。
(g) He stopped the machine.
(h) He got the machine to stop.
これは久野・高見(2004: 30-1)の指摘でハッとした例だが,以下の2文の違いを感じ取ることができるだろうか(テロの直後にニュースか何かで実際に用いられた表現だったと記憶する)。
(i) The terrorists exploded the bomb in central New Delhi.
(j) The terrorists made the bomb explode in central New Delhi.
stopと同様,「爆発させた」という事実だけなら(i)で十分である。そうではなくmake使役を用いたということから,(まだ詳細は明らかになっていないが)何か通常想定されるのとは異なる手段で,つまり自爆テロなどの形で強制的に爆発に至るよう仕向けられたという解釈がもたらされるのである。
個々の表現をつき合わせていった時に,「簡潔」とはどういう意味で,なにをもって「ステレオタイプ的な意味・用法・状況」とするのかという疑問が生じることも勿論あるし,何でもかんでもこの説明が必要だとも有効だとも思わないが,こうした語用論的原理に基づく説明は,「形式が違えば意味が違う」とはどういうことなのか,その理解を深める一助になり得ると思う。
文献:
- Bolinger, Dwight (1977). Meaning and Form. London: Longman.〔中右実訳(1981)『意味と形』こびあん書房〕
- Horn, Laurence R. (1984). “Toward a new taxonomy for pragmatic inference: Q-based and R-based implicature.” In Schifrin, Deborah (ed.). Meaning, Form, and Use in Context: Linguistic Applications. Washington, DC: Georgetown University Press. pp. 11-42.
- Horn, Laurence R. (2004). “Implicature.” In Horn, Laurence R. and Ward, Gregory (eds.). The Handbook of Pragmatics. Oxford: Blackwell. pp. 3-28.
- 大竹政美(2000)「英語の(準)法助動詞can, may, must, have to, willの使い分けができるような指導に関して」『北海道大学大学院教育学研究科紀要』82: 73-8.
- 加藤泰彦(2004)「24. Laurence R. Horn. A Natural History of Negation」山中桂一・原口庄輔・今西典子(編)『意味論』〔英語学文献解題: 7〕研 究 社,pp. 166-167.
- 久野ススム・高見健一『謎解きの英文法:文の意味』(くろしお出版,2005年)
- 佐藤芳明・田中茂範(2009)『レキシカル・グラマーへの招待』開拓社
- 亘理陽一(2007)「文法教育の内容編成の基盤としての語用論的原理:英語の比較表現への適用」『北海道大学大学院教育学研究科紀要』100: 51-76.