[レビュー][旧記事] Larsen-Freeman (2002)を長めにまとめる(3)
誰が最後まで読み続けてくれるのか分かりませんが,
のまとめの続きの続き。今回で完結。個人的見解多め。
文法構造の選択(続)
2 力関係
例えば,南アフリカの新聞がネルソン・マンデラの解放に関する出来事を報道した際,(16b)ではなく,黒人を文の主語にした(16a)を用いることによって,暴力行為の責任が彼らにあるという印象を与えようとした。
- (16)
- a. Jubilant Blacks clashed with police …
- b. Police clashed with jubilant Blacks.
このように,他のものを犠牲にすることで特定の参与者にある力が与えられる。力関係の下には,重要性・性・断定性・無遠慮さ・確信性の5つの下位カテゴリーが設けられている。
2.1 重要性
いわゆる対称関係の述語は実際は等価ではなく,名詞句の重要性に応じて一方の形式が他方より好まれる。次の状況と選択について考えてみよう。
(17) Shakespeareの演劇が一人で書かれたものではないことが分かったと仮定しよう。作品の特徴はShakespeare によるものだが,Smithという名の人物が彼を助けていたのだ。さて,あなたならこの関係をどう記述するだろうか。
- a. Shakespeare wrote with Smith.
- b. Smith wrote with Shakespeare.
- c. a.とb.の両者に優劣はない
Larsen-Freeman (2002)が引用している研究によれば,a.よりもb.を選ぶ解答者が統計的に有意に多く,c.を選ぶ者は最も少なかったという。より重要な行為者を末尾焦点の位置に置くことを解答者が好んだためだと説明されている。
2.2 性(差)
力関係の不均衡に関係しているのが男性と女性の話し言葉の違いである。例えばSargent (1997)は,「女性は,話が聞き入れられなさそうだという懸念から,男性よりも強調語を多く使用する」という推測を提示している。例えば(18)は,男性よりも女性がしそうな発話だということになる。
- (18) It’s really a very nice spot.
2.3 断定性
Larsen-Freeman (2002)は,誰かの意見をどの程度断定的に言い表すのかということも力に関係があるものとしている。例えば,(19a)は「否定辞繰り上げ」と呼ばれるもので,否定辞を主節に移動し−−(19b)の従属節が表す否定命題を断定するのではなく含意することによって−−言い抜けの余地を残した弱い主張を表している。
- (19)
- a. I don’t think Sandy will arrive until Monday.
- b. I think Sandy won’t arrive until Monday.
2.4 無遠慮さ
ある形式にある前提が伴うことがある。例えば語順を倒置せずに疑問として文を用いる理由の一つは,話し手のある――(20)は,答えが“yes”だろうという――前提の確認である。
- (20) 労働者が監督者に: You’re going to the dance?
したがってこの用法は,用いた人は解答が予測できるほど相手の人物をよく知っているということを示唆する。そのような親密さがなければ,このような語順で疑問を発することは無遠慮に映るかもしれない(白井(2012: 31)に,Celce-Murciaせんせから怒られたという,同じエピソードがある)。
2.5 確信性
いわゆるthat節のthatは統語的には任意だが,表現するかしないかで,従属節の命題内容に対する話し手の確信の度合いが異なるということが指摘されている。表現しない方(21b)が話し手の確信度は強い。
- (21)
- a. I know that it’s raining.
- b. I know it’s raining.
3 アイデンティティ
Larsen-Freeman (2002)は,「個人の言語使用のパターンは指紋と同じくらい本来的に特有のものだ」というWiddowson (1996)の言葉を引いて,われわれが自分のアイデンティティを確立し,維持するためにどのように言語を用いるかということに関わる要因にも注目する。アイデンティティの下には,性格・年齢・生まれ・地位・集団の成員であることと談話共同体の5つの下位カテゴリーが設けられている。2.で述べた観点からすると,このような個人差に関わる要因は,明示的文法指導の教育内容構成にはそれほど重要性を持たないと考えられる。
例えば,「性格」について挙げられている性格テストの結果と被験者の法助動詞の使用の相関は,言語運用について「‘should’を多用していると内省的な人だと思われるかもしれない」といった程度の小話にはなっても,法助動詞の選択の指導に必要な要素となるとは考えにくい。「生まれ」について挙げられている北米英語の方言の特徴――I might be able to goではなくI might could goと言う――についても,そういう変異を耳にした場合のために,あるいはある文法規則を規範的に捉え過ぎないためには知っておいても損をしない話だが,使い分けを学ぶ必要があるとは思われない3)。
「年齢」で挙げられているいわゆる「若者ことば」や世代差の話や,「地位」で挙げられている社会的階層による話し言葉の違いはそれとして面白いが,いずれも改まり(formality)の程度の違いとして触れる程度で十分だと思われる4)。「集団の成員であることと談話共同体」の例もジャンルに近い話で,仮に一人の学習者がこういう立場に応じた使い分けを必要とするのであれば,特定の目的に応じた言語活動を用意して解決すべき問題だと言えよう。
最後にLarsen-Freeman (2002)が触れている他の要因については,次のことが指摘できる。上で述べてきたことが音韻的要因によっても表現し分けられることを認識しておくことは重要である。しかし,音声化する前にどの形式を用いるかを判断しなければならない以上,そして書き言葉でもある選択の結果もたらされる語用論的効果を理解できなければならない以上,明示的文法指導においては音韻的要因に拠らない(にもかかわらず存在する)選択の体系こそが教育内容の中心となるのではないか。音韻的要因よりも,Larsen-Freeman (2002)が「言われたことと同じくらい態度を示すことがある」と指摘している「言われていないこと」,つまり「言外の意味」の方が注目すべき価値があると考える(これについては,亘理(2007)を参照)。
教育学的帰結
「Aと言うべきかBと言うべきか」という文法の問題に固定的な一つの正解があるわけではないが,「場合による」とだけ答えて生徒の疑問をそのままにしておくべきではない。Larsen-Freeman (2002)は「各選択に伴うものを,レベルに応じたやり方でできるだけ明瞭に理解できるようにすべき」と言っているが,レベルに応じているかどうかは前もって決めることではない。むしろ必要なのは,生徒がそのような疑問を残すことがないように,個々の構造の選択を理解させることができるような教育内容構成であり,そこまであってはじめて十分な明示的文法指導と言えるのではないだろうか。
文法を形式・意味・使用の3次元で考えることに異論はないが,「使用」(use)という大きな括り(のみ)の枠組みには不満もある。例えばLarsen-Freeman (2002)が注で挙げているCelce-Murcia and Larsen-Freeman (1999)やLarsen-Freeman (2003)には受動態を用いる理由が列挙されているが、それぞれの使用の動機づけは質的に異なる(例文は全て,Larsen-Freeman先生が監修したGrammar Dimensions 2から)。
- (22)
- a. All the cookies were eaten last night.(動作主が不明)
- b. A mistake was made.(動作主が隠されるべき)
- b. Wheat is grown in the east.(動作主が余分)
つまり動作主が不明(22a)というのは「事物・事象をどう表す(ことができる)か」という観念構成の仕方の問題(i)であるが、動作主が隠されるべき(22b)というのは「誰かに配慮すべきか否か」という対人関係にかかわる理由(ii)であり、動作主が余分(22c)というのは「冗長な言い方を避けたい」というテクスト形成にかかわる話(iii)である。Grammar Dimensionsがそこに目配りが利いているのは偉いということになるのだが,教育内容構成の理論的枠組みとしては「使用」(use)だけでは粗いと思う。彼女ら自身もある程度認めている通り、適切な使い分けのために(i)~(iii)のどの側面が色濃く求められるかは文法概念によって異なるからだ。
Larsen-Freeman (2002)は,文法構造の選択で見た全ての区別が教えられるべきとは言わないにせよ,こうした選択を教える際,最初の内は,明示的なアウトプット作業のない意識昂揚的なもの,つまりreceptiveな形での明示的指導が大半となる可能性を指摘している。具体的には(17)のような問いの形で,与えられた状況で使用される可能性のある二,三の形式について選択を行なう意識昂揚タスクに従事することが提案されており,類似の命題内容を伝える正確な文法形式がそこでの選択肢となる。Larsen-Freeman (2002)は,この後に,ロール・プレイのようなもっと自由度の高いコミュニケーション活動で,与えられた状況に適切な文法構造を用いることが求められるとしているが,「自由な言語活動」を行なうためには先ずその自由を保障する手段が必要だという意味で,カリキュラム論として首肯できる考え方だ。
問題は,教育内容構成においてどのような「状況」を与えるのが適当なのか,どのような対比が「類似」だと言えるのかということである。当然ながらそれを考える際に重要な視点は選択の体系ということであろう。「力関係」で挙げられた文の情報構造に関わる例は,Huddleston & Pullum (2002)のように,態や外置・分裂構文,There構文などをひとまとめにして「情報のpackaging」の問題として扱うことができる((i)+(iii))。「態度」に含まれる時制の選択も,動詞句を構成するカテゴリーの意味論的な理解を基礎にモダリティの一側面として扱うことができる(主として(ii))。
他方で「アイデンティティ」の内容の多くは,Leech (1983)の分類を借りて言えば、社会語用論的な側面であり,文法教育の内容として何をどこまで扱うかというのは外国語教育(のカリキュラム論)にとっての難問である。「態度」の節に顕著なポライトネス(≠「丁寧さ」)がかかわる内容の扱いも、スペンサー=オーティー(2004)が指摘するように「社会的判断」であるが故に,言うほど簡単ではない。ただ,物理的・時間的距離と心理的距離との結びつきや間接性の選択・調整は,複数の文法形式にまたがる語用言語学的概念として扱えるだろう。
このように見たとき,Larsen-Freeman (2002)の挙げた例は,(i)-(iii)の下位の構成要素としてそういう説明・対比があり得るという例として参考にするのが適当だと思われる。(了)
注
参考文献
- Celce-Murcia, Marianne & Larsen-Freeman, Diane (1991, 19992). The Grammar Book: An ESL/EFL Teacher’s Course. Boston, MA: Heinle & Heinle.
- Larsen-Freeman, Diane (2003). Teaching Language: From grammar to grammaring. Boston, MA: Thomson Heinle.
- Leech, Geoffrey N. (1983). Principles of Pragmatics. New York: Longman.〔池上嘉彦・河上誓作訳(1987)『語用論』紀伊國屋書店〕
- Levinson, Stephen C. (2000). Presumptive Meanings: The theory of generalized conversational implicature. Cambridge, MA: MIT Press.
- Sargent, J. (1997, November). “The interaction of language and gender.” Paper presented at the TESL conference, Halifax, Nova Scotia.
- Widdowson, Henry G. (1996). Linguistics. Oxford University Press.
- 白井恭弘(2012)『英語教師のための第二言語習得論入門』大修館書店
- 亘理陽一(2007)「文法教育の内容編成の基盤としての語用論的原理:英語の比較表現への適用」『北海道大学大学院教育学研究科紀要』100: 51-76.