[レビュー][旧記事] Macaro (2001)について少しばかり詳しく。
和歌山大学の江利川先生が、ブログ・希望の英語教育へ(2月10日)で、亘理(2011)を紹介してくれました。それ自体恐縮し切りなのですが、正確を期するため補足を兼ねて、そこで引いた
- Macaro, E. (2001). Analysing student teachers’ codeswitching in foreign language classrooms: Theories and decision making. Modern Language Journal, 85, 4, 531-548.
についてまとめておきます(Twitterでつぶやいたものを元に構成)。
Macaro (2001)は6人の教育実習生(内二人はイギリス以外の国籍)の授業分析とインタビューによる研究で、亘理(2011)では、「i) 教師のL1(英語)使用の量と学習者のL1(英語)使用の量に相関はなく、ii) 教師がほとんどないしはもっぱら目標言語(フランス語)だけを用いても、学習者の目標言語使用の有意な増加は認められない(学習者の目標言語使用はむしろ,クラスのレベルとやや強い相関がある)ということを示した(Macaro 2001: 537)」と紹介した(亘理 2011: 35. Macaro and Mutton (2002)では,2人の教師(フランス国籍)について同様の研究が行なわれている)。
具体的には、フランス語を学んで1~3年目の11-14歳の学習者(各クラス30名)に対する14時間の授業(平均39.2分)を記録し、5秒ごとに話し手および使用言語をカウントして、教育実習生のL2使用・L1使用、生徒のL2使用・L1使用、いわゆる4技能別のタスク、沈黙のカテゴリーに分類して分析を行っている。
データを見る前にまず確認しておくべきは、Macaro (2001)では目標言語のみで授業ができるくらいのproficiencyの(少なくともbeginnerやintermediateレベルではない)教育実習生が選ばれているということである。そうしないとL1/L2使用が、教師の運用能力の問題なのかそれ以外の要因によるものなのか区別がつかなくなってしまうおそれがあるから、これは尤もだ。もう一つ補足としては、分析対象となったクラス(学区)の経済的背景は偏らないよう、ある程度配慮している(とは言っても小さいサイズの事例分析だから、教育実習生全体についてなんか言おうとしていると思わないでね(ω)とMacaro (2001)は断っている)。
前置きが長くなったが、詳しいデータは以下の通り。
授業時間全体に占める割合では、
- 教師のL2使用(M(SD)=55.0(13.15)%, MAX=79.6%, MIN=38.3%)
- 教師のL1使用(M(SD)=4.8(4.58)%, MAX=15.2%, MIN=0%)
- 生徒のL2使用(M(SD)=10.4(5.13)%, MAX=21.5%, MIN=3.7%)
- 生徒のL1使用割合(M(SD)=2.1(2.05)%, MAX=5.8%, MIN=0%)
全発話に占める割合では、
- 教師のL2使用(M(SD)=75.6(8.64)%, MAX=88.0%, MIN=65.1%)
- 教師のL1使用(M(SD)=6.9(6.56)%, MAX=23.8%, MIN=0%)
- 生徒のL2使用(M(SD)=14.3(6.95)%, MAX=31.9%, MIN=7.1%)
- 生徒のL1使用(M(SD)=3.19(3.1)%, MAX=11.1%, MIN=0%)
この研究では、インタビューを通じて、「安西先生、L1が使いたいです。。。でも、ナショナル・カリキュラムの縛りがキツいんです」といったある実習生のナゲキも紹介しているが、このデータを見れば、冒頭のi)とii)を、日本の現状に直接当てはめることが難しいのは明らかだろう(そのことは拙論でも指摘した)。Macaro (2001)では「L2使用の機会がより多く与えられていて学年が上であればあるほど、生徒のL2使用割合は多くなっている」ことが、5%水準で有意な相関関係として報告されているが、当然ながら因果関係を語るものではない。
Macaro (2001)は(教師のであれ生徒のであれ)L2使用の質を問うていないので、「直接教授法」とか”Communicative Language Teaching”の云々といった話とは結びつかない(特定の教授法を排除するわけでもないけれども)。ただ、何となくデータとインタビューから、L2使用の相対的多少にかかわらず、どれもあんまり面白そうな授業じゃないという気はする。
Twitterで浦野先生がつぶやいていたように,昨年のJACETの講演でMacaro先生は「L1使用が15〜20%を超えると、授業がコミュニカティブなものではなくなる」と言っていた。ただMacaro (2006)などでは、授業全体に占める割合が小さくても、L1を使えば短い時間で多くのことを伝えられるといった利点などにも触れて、L1使用の目的をまとめたりもしている。亘理(2011)はその辺のことをまとめて、「英語か日本語か」的なギロンの不毛さと、codeswitchingという発想が排除されることの不健全さをきちんと指摘しようとした。
さらに言えば、英語教育関係者の少なくない人が以前からEnglish onlyなどとは言わずEnglish mainlyと言っていたわけで、「しのごの言うの止めて、学習者が目標言語をより多く使うようにするには、どういう英語とどういう日本語でどういう内容を教えたらいいか考えよう!」ということを(主として、事情にあまり明るくない教育学の人たちに向けて)叫んだのであった。
参考文献
- Macaro, E. (2006). “Codeswitching in the L2 Classroom: A communication and learning strategy.” In Llurda, E. (ed.). Non-Native Language Teachers: Perceptions, challenges and contributions to the profession. New York: Springer. pp. 63-84.
- ____ and Mutton, T. (2002). “Developing language teachers through a co-researcher model.” Language Learning Journal 25: 27-39.
- 亘理陽一(2011)「外国語としての英語の教育における使用言語のバランスに関する批判的考察」北海道教育学会『教育学の研究と実践』6: 33-42.