[本003] Stephen Jay Gouldの3冊
を語るほどグールドの著作を読んだわけではないのだが。
一冊を挙げるとすれば間違いなく
になるだろうが、これは、かなりの知識とエネルギーを前提とする。「優生学」などといった過去の事実や科学的営為が常にもたらし得る欺瞞に憤懣やる方ない思いを抱いたことがある、あるいはこれから本気で抱く用意がある人でなければ容易には読み通せないだろう。同書の端的で優れた書評はこちら(女教師ブログ「書評、S.グールド著 『人間の測りまちがい ―差別の科学史』(2008、河出文庫)」)に譲る。
私が最初に手にしたグールドの著作は、
- スティーヴン・ジェイ・グールド(櫻町翠軒(訳))(1996).『パンダの親指:進化論再考』早川書房.(Amazonでは検索でも出てこなかったので原著)
だ。大学1年の時だったと思うが、グールドのことを知っていたわけでもなく、進化論さえろくに分かってもいなかった。単にパンダの後ろ姿が描かれた表紙とタイトルに惹かれたというだけ。だが、この読書体験は私を決定的に変えたものの一つに違いない。
表題作を読むと、「自然は優れた鋳掛屋であって、聖なる工匠ではない」ということ(p. 33)、つまり、「進化」とは手持ちのものをどうにかこうにかやりくりした結果であって、必ずしも計画的・合理的に準備されたものではないということがよく分かる。パンダは解剖学的な意味で6本目の「指」を持っているわけではない。パンダは笹食ってる場合だったのだし、それにだって苦労してきたのだ。
進化や自然科学を語る以上、専門用語が出てくるのは避けられない。翻訳にやや文章が固いという印象を持つ読者も少なくないだろう。たが、グールドのエッセイシリーズはこんな調子で、知的で挙げられている例自体が面白く、ユーモアに富む。おそらく私に最も響いたのは、全体を貫くグールドの次の姿勢だ。
プリニウスの言葉(Natura nusquam magis est tota quam in minimis――自然は、最少の被造物における以上に、完全な形で見出されることは決してない)は、私を魅了してやまない自然史の本質をとらえている。昔からある紋切り型――神話に共通する紋切り型ほどよく守られわけではないが——では、自然史のエッセイは動物たちの特異性――たとえばビーバーの不可解な工事のしかたとか、クモがしなやかな網を編む方法とか――を記述するだけにとどまることが多い。たしかにそこには楽しさがあり、そのことを否定する人はいない。しかし、生物はみな、それよりはるかに多くのことをわれわれに物語ることができる。それぞれの生物が教えてくれるのである。つまり生物の形態や行動は、われわれがそれらを読みとれるようになりさえすれば、一般的な意義(メッセージ)を表現していることがわかる。そして、この教えに用いられる言語こそが、進化論にほかならない。楽しさに加えて説明が肝要なのだ(pp. 9-10. 原文では「に加えて」に傍点。下線は引用者による)。
2011年に、エッセイシリーズの最終章
が邦訳・出版された(グールドは2002年没)。『人間の測りまちがい』を除けば、初めてハードカバーで買ったグールドの本だ。この頃私は色々なことに忙殺されていて、生活に全く余裕がなかった(今もあるとは言えないが…)。それだけに、グールドの本の1章、1ページを繰るという行為はものすごく贅沢なことのように、読み終えるのがもったいないことのように感じられた。もう一つ、私が好きなグールドの姿勢をこちらから引用しておこう。
それは、専門書でも一般書でも概念上の深みに差があるべきではないということだ。さもなければ、科学の高等教育を受けてはいないものの、どの専門家にも劣らないくらい科学が好きで、われわれにとっても地球の存続のためにも科学は重要であることをわかっている何百万人もの潜在的読者の関心と知性に対して失礼にあたる(pp. 13-14)。
「文系・理系」などというどうでもいい区別とは全く無縁で、圧倒的な知識と文章で楽しさと納得を与えていく。私に彼ぐらいの知恵と文章力があれば、大学教員などせず物書きとして暮らそうとしていたかもしれないが、幸い私にはそんな能力はなく、まだ読んでいないグールドの著作があることを喜ぶ側でいる。誰にも邪魔されない時間に、静かで涼しい場所で、早くそのページを繰りたいなあ(その環境を生み出すための「進化」が必要だ)。
Let there be light reading.