[マンガ喫茶004]『坂本ですが?』
いわゆる一つの職業病だが、教職や学校を描いたマンガやドラマはどうしても気になる。ただしそうした作品は、教師や学校それ自体の特殊性・面白さ・困難等をドラマとして描こうとしたものと、単に学校が舞台となっているだけのものに大きく分かれる。後者(学園恋愛モノやスポーツもの)は、前者と連続した性格のものではあるが、単に「学校」が読者・視聴者の多くが共感しやすい場所としてそこが選ばれているだけで、その意味であまり興味はない。
「教育学」や「教育原理」を担当していた頃は、前者を引き合いに出して教職観の変遷を説明したりもしたものだ。つまり、80年代以降、金八先生が「労働者観」を丸出しに走り回った一方、『高校教師』がセンセーショナルだった(あるいは今も教師の「不祥事」が時に必要以上に騒がれる)のはある種の「聖職」的イメージを視聴者が引きずっていた(る)からであり*、以降の元ヤンキーだの極道の娘だののキワモノ系は労働者観や聖職観からいかに離れるか(金八じゃない教師をどう見せるか)とあがいてきた結果である云々。
* ただし「聖職観」という言葉や考え方は、日本の場合、「生徒ヲシテ徳性に薫染シ善行ニ感化セシメンコトヲ務ムヘシ」 (小学校教員心得, 1881年)といった、管理的・支配的性格を多分に帯びた「国家の意思に忠実な教師像」を表す概念として用いられてきたのであって、「ひとを対象にする重要な職業」という意味で使うのは教育関係者も含めて止めたほうがいい。
むしろ変わり種と位置づけられる『ドラゴン桜』や『女王の教室』、『ハンマーセッション!』といった作品は、教師が担う専門性の一部を極端に表現することによってある種の脱構築を果たしたが、主人公の教師はあくまで外部から来た異質な存在であり、専門職としての教師という描き方にまでは至っていない(ILO・ユネスコでは既に1966年にはそう定義されているにもかかわらず)。マンガやドラマである以上、仕方のないところもあるし娯楽作品としてはそれでもいいのだが、教師を「特殊能力者」として描くやり方で教職や学校の実相に迫ることはそもそも難しい。そこにいる教師集団が専門職観ないしは佐藤学の言う「反省的実践家」として描かれたドラマやマンガは、少なくとも私の知る限りでは、未だにほとんど見当たらない。中でも例外というか、出色なのは『鈴木先生』だがこの紹介は別の機会に譲る(『暗殺教室』も特殊能力者丸出しの系統ではありながら、これがなかなかどうしていいところついていると思うのだが、この紹介も別の機会に譲る)。
さて、『坂本ですが?』。ここまで長々教職ドラマ論を打っといてなんだが、この流れで言えば、単に学校が舞台となっているだけのマンガという気もする。だが面白い。上の話は教師が主人公の作品論だが、もちろん生徒が主役というのもあり得る。生徒の場合も「特殊能力者」「絶対的存在」という描き方が多くなる−−反動か、最近は全くそうじゃない存在にスポットを当てた作品ばかりが目立つ−―が、最近だと『銀の匙』はそうではない、オルタナティブの提示の仕方がよくできた作品(『究極超人あ〜る』方向もうちょいシリアス青春寄り)だが、この紹介も別の機会に譲ろう。『坂本ですが?』の主人公・坂本くんはバリバリの「特殊能力者」タイプだ。だが面白い。
リンクの解説を見てもらえれば分かるが、学校生活のあらゆる場面をスタイリッシュにこなす坂本くんを描いた、すぐに先が続かなくなりそうな話だ。だが面白い。第1巻を読んで「すぐ終わるんだろうなw」と思ったのだが、第2巻に入っても意外と頑張っている(だんだん学校からは離れてきているきらいもあるが)。要するに学校文化や中高生のよくある言動の壮大かつバカバカしいカリカチュアなのだが、そのセンスが良い。端整な絵にシュール・ギャグというと『魁!!クロマティ高校』が思い起こされるが、クロ高のゲスさと毒が和らいだものと捉えてもいいのかもしれない。ただ、それだけなら「好きなギャグマンガ」というだけでここでは紹介しなかっただろう。『坂本ですが?』には、単に学校を舞台にしているだけではないものを感じる。一言で言えば、学校文化と人間をよく観察している!ということだろうか(ちょっと古めの気もするけど)。ナナメ具合が良い。一見でたらめに見える振る舞いで人間関係や学級を整えていく辺りに『暗殺教室』と通じるものも感じる。
それでも、学校を舞台にしたままでは、どうがんばっても5巻までは続かないだろうな。だが面白い。
To be continued…