[雑感012] Youは何しに大学へ
思い出話みたいな「教養」論、あるいは憤り。
前にどこかで書いた気もするが、20世紀末あたりの大学の入学式で、当時の学長が「これからはスペシャリストの時代だ」というような話をした。曰く、ジェネラリストでは何の個性もないということになりかねず、それぞれの専門知識・技術に特化して勝負していかないとダメだというような話であった。青臭かった私(18)はこれにややカチンときて、「ようし、だったら個性的なジェネラリスト、すなわち『ジェネラリストのスペシャリスト』になったろうじゃないの」と思った。そうして現在の私に至る。
現在の私が結果としてどうなのかはともかく、カチンときてしばらくの後、出会った本に
- ウォルター・アルヴァレズ(月森左知(訳))(1997).『絶滅のクレーター: T・レックス最後の日』新評論.
がある。この本をのことを知ったのは、ブックガイド系の本だったか、それとも板倉聖宣さんの著作だったか立花隆さんの著作だったか…思い出せず、ジェネラリストのスペシャリストもどき(34)は記憶力の低下にやや哀しさを覚えるのだけれど、とにかく好きな本だ。というよりも、この話(間接証拠を積み重ねていくプロセスや、地質学者と父親の物理学者のタッグがなし得た発見)が好きなのである。後に科学哲学を勉強したりして物理学や化学の面白い事例にいくつも出会ったけれども、私の中では「これぞ科学」という話の一つだ(クリストファー・ロイドがWhat on earth happened?で「137億年の物語」を解き明かしたトップ10にこれを挙げるのもよくわかる)。
授業でこの(K-T boundaryの)話についての文章を取り上げようと思って久々に手に取ったのだが、併せてどの本の紹介に啓蒙されたのかがどうしても気になって仕方がない。何冊か書棚から引き出してみた中に、
- 小林康夫・山本泰(編)(2005).『教養のためのブックガイド』東京大学出版会.
があった。『絶滅のクレーター』に出会ったのはこの本が出版されるより前のことだったと思うので、この本に紹介があるとは思えなかったのだが、パラパラめくってみる。改めて読んでみると、冒頭の小林さんの文章はとてもアツい。戦争による荒廃や軍国主義による文化の荒廃という歴史的背景において、「人間的な文化」への希求があった。そこでは、「人間」とは少しも自明なことではなく、学ぶべき何かだということだ、それが重要だ、と。小林さんは次のように続ける。
「人間」を学ぶとは、人間が歴史のなかで「人間」を問い、その「理想的な本質」を現実として生み出そうとしたその多様なあり方を学ぶということ、そしてそれを通してみずからもそのような文化をつくりだすことを学ぶということなのです。
「人間」は普遍的な、一般化可能な理念ですから、ある意味では抽象的です。小林秀雄ーーという名もいまの大学生の多くにとっては知らない名なのかもしれないと懼れながら言うのですがーー流の気の利いた、そして気の利いただけの表現をすれば、(普遍的な)「人間」などというものは存在しない。現実に存在するのは個々の具体的な人間だけである、ということになるでしょう。しかし、特定の歴史的状況、地理的制約、文化的な文脈に拘束された個人が、その特異な個人性において行い生み出した思考、作品、仕事がそれでもなお、その特異性を通じて、普遍的な「人間とは何か?」に開かれているということが重要なのです。
(中略)
こうして考えてくると、「教養」のためのアイテムが、本質的に、異質なものを含む複数のものであるべきだ、ということがわかります。しかし、同時に、絶対的にこれでなければならない、というものがない、こともわかります。確かに世界のきわめて多くの人びとがそれに基づいた信念体系を生きていることからするとたとえば『聖書』を、あるいは『コーラン』を、さらにはいくつかの『仏典』を読んでおくことはよいかもしれませんが、しかしそれは必須というわけではありません。『カラマーゾフの兄弟』も『細雪』も『ツァラトゥストラはかく語りき』も絶対必読というわけではありません。ドフトエフスキー、谷崎潤一郎、ニーチェの名を知らなければならないということなどありません。
それに「教養アイテム」のリストが可能だとして、それはいったいどのくらいの数のオーダーなのか。たとえば書物という形態だけを考えても、大学生活4年間と限ったときに、いったい一般的に何冊の本が読めるだろうか。せいぜい数十冊でしょうか。そのようなオーダーのなかに、われわれがいま、比較的容易に本という形で手にすることのできる「人間の問い」に開かれたすべてのアイテムをリスト・アップすることなど不可能です。いや、既に述べたこどからも明らかなように、どの本がこのリストに含まれるべきかなどという絶対的な基準などはないのです。にもかかわらず、ーーここが本書の主張なのですがーーなんらかのリストは可能です。いや、われわれが少なくとも「人間的な文化」という理念のもとに学ぼうとする限りにおいては、誰にとっても等しく同じリストと言うのではなく、むしろそれぞれの人が自分なりの仕方で、自分にふさわしくその問いを学ぶためのリストがあるべきなのです。
そしてそのリストは日々更新されていくべきです。すなわち、ほんとうの意味で教養なるものがあるとしたら、それには終わりがありません。これだけ学ぶと習得できて単位がもらえるというようなものではないのです。そうではなく、何かの役に立つからでも、なんらかの利益があるからでもなく、ただ純粋に、みずからの存在の深さを耕すためにのみ学びつづけようとすることなのです。それ故にそれは、ほんとうは、自分自身を大切にするひとつの仕方にほかならないのです。
(中略)
耕すということは、単に表層の意識によって瞬時に消費されるような単なる情報としてではなく、それを消化し、それにほんとうに出逢うためには、みずからの想像力と思考とがぎりぎりの限界にまで励起されるような経験を持つということです。自分の存在の深さに降りていくための時間が与えられなければならないのです。その時間、そのリズムを、自分にとって自由に組織することができることにおいて、また、わずかな容量に膨大な、見かけよりは遥かに膨大な、汲みつくしがたいイメージが隠されているそのコンパクト性において、本こそ、もっとも経済的なメディアであり、もっとも個人化されたメディアなのです(pp. 7- 10。傍点を太字で表記。下線は引用者による)。
今日、ごく一部の大学・学部以外は、例えば法学部では「憲法・刑法ではなく、道路交通法、大型第二種免許・ 大型特殊第二種免許の取得」を学ぶべき、というような冗談としか思えない「有識者」の議論を目にした。これは、小林さんの言葉を借りれば、「お前らは自分自身を大切にしなくてよい」と言っているのと同じことであり、こういうことを平気で、あるいは確信犯的に公言できる人は、上に述べられているようなことをそれまでの人生で感じ損なった人なのだろう。大学に行く目的はそれぞれあってよいが、そこで学ぶ内容、学べる内容は、一部の人の偏った「人間」像・「社会」像に決めつけられるようなものではない。
私が「ジェネラリストのスペシャリスト」になれたのかどうかわからないが、学生時代の私を支えたのは、そして今の私をかたち作ったのは、『教養のためのブックガイド』のような哲学で行動できる人とその手による本、そして「自分の存在の深さに降りていくための時間」であったことは間違いがない。それは「『職業訓練』に異次元レベルで注力する」人とは全く次元の異なる世界のお話で、私はそういう世界の人たちには全く必要とされないのだろうが、何の不満もない。むしろ幸せで、入学式で私のカチン・スイッチを押してくれた学長に感謝するくらいだ。
そういえば、卒業の時に、最も尊敬する先生のひとりが次のような言葉をくれた。
たのしむべ。自然を、くいものを、のみものを、歌を、おしゃべりを、そして研究も。どうすればたのしいか、きわめつくすのが教授学の奥義である。
どれだけ大学がカサカサした場所になったとしても、少なくとも私は、学生・院生、周囲の人たちに対して同じような言葉をかけられる存在であれたらと思う。