[雑感025]「英検」要求の耐えられない軽さ
文科省からこのデータが公表されるたびに、やんややんや議論が喧しい、英語教員の「英語力」問題。
事情を知らんやつと自分の「英語力」自慢したいだけのやつ、自分の「正義」振りかざしたいだけのやつは黙っとけ!で終わりたいのだが、毎年繰り返されるので書いておく次第。この記事に関係なく、いらんこと言っては騒ぐ人たちが黙ってくれるのであれば、それは勿論やぶさかではない。
いつから始まったのか知らないが、同種の調査では「英語能力に関する外部試験」(「とは、英検、TOEFL、TOEICを指す」そうだ。IELTSやケンブリッジ英検はダメなんかーい)の受験状況、一定スコアの取得状況が尋ねられている。文科省のこちらのまとめを参照。
上の報道でも、前提や文脈を抜きにした数字のひとり歩き力が遺憾なく発揮されているが、そもそも、何を根拠にそんなことが要求され得るのだろうか。
教育公務員特例法には、「研修」に関して
教育公務員は、その職責を遂行するために、絶えず研究と修養に努めなければならない(教育公務員特例法第21条第1項)。
という記述がある。「英語能力に関する外部試験」の受験および一定スコアの取得が、英語教員の「職責」に照らして必要な「研究と修養」に該当するかどうか。平たく言えば、
- 英検が、英語教員の授業構成・英語指導にどのくらい関係あるのか(「英語能力に関する外部試験」の英語授業に対する妥当性の問題)
- 英検が、英語教員に必要な英語運用能力を測るものとしてどのくらい適切なのか(「英語能力に関する外部試験」の(英語教員の)英語運用能力測定に対する妥当性の問題)
が問われる。英検等に前者を期待している人はさすがに多くないだろうが、後者だけで英語教員に「研修」としてこれを要求するのは合理性を欠くだろう。
「英検等で測られる英語運用能力は、十分条件ではないにしても必要条件だ」という人は(英語教育界隈にも)結構いそうだ。しかし現にそれを持っていなくても採用している現状があるのだから、仮にその重要性が認められるとしても、むしろ同じ教育公務員特例法の
教育公務員の任命権者は、教育公務員の研修について、それに要する施設、研修を奨励するための方途その他研修に関する計画を樹立し、その実施に努めなければならない(教育公務員特例法第21条第2項)。
という記述に照らせば、そのための条件がほとんど全く整備されていないことのほうを指摘すべきであり、嘆息すべきだ。
英検を例にとれば、受験の機会は年に3回しかなく、この日の日曜日というのは既に指定されている。受験会場の選択肢も乏しく、1つか2つしかない県もある。静岡県は5カ所あるとはいえ、南伊豆や下田に住んでいる先生は半日をかけて行き来しなければならないし、一次試験の開始時間を考えればおそらく前日入りを余儀なくされる。英語教員はその手当て(費用・代休)をちゃんと得られているのだろうか。それに見合う対価が得られているのだろうか。私が知っているのは、現在、英検の受験料が3、4千円割り引かれているということだけだ。十分な準備の時間も環境も与えられず、給与上も労働条件上も何のメリットもなく、2回の日曜日(そういう日に限って友人は結婚式を開き、子どもは熱を出す。そうだ、その日の部活を誰か代わってもらわなきゃ。そもそもその部活だって…)をためらいなく差し出す自己犠牲をなぜ英語教員だけが強いられなければならないのか。誰か納得できるように説明してくれ。
ようし、英語教員にとっての「英語能力に関する外部試験」の重要性・妥当性をだいぶ譲って受け容れるとして、こうしようじゃないか。「英検準1級以上等」取得者の給料・昇級幅を4割増にしよう。けち臭いこと言うない。英検1級(並)取得者で行こう。初任給倍スタート、初任研一部免除、途中で取得した者もその水準に引き上げてあげたらいい。ギスギスするだろうけどね!増やしたいんでしょ?!そんでもって、持たずに採用になった者も取得できるように、取得希望者は週3時間相当の書類業務免除、担当授業週3コマ免除。その分を教材やALTとの勉強時間に使ってよし。取得したら10年研も一部免除。教科の予算・権限も増。今なら教科準備室にダイソンの掃除機もつけようじゃないか。…そのぐらい言ってから要求してくれ。
採用のレベルでは、そうした資格・スコアが少なからずインセンティブとして機能している。市や県によってはそれで一次試験を免除したりしていることもあり、私がいま接している学生・院生の多くは、そういう打算を抜きにしても自分たちが教員となった後のことを考えて、在学中に「準1級以上等」を取ろうと頑張っている。それくらい英語ができればもっと待遇の良い職業に就けそうであるにもかかわらず、願望だけが肥大した荒れ野のような教育の世界に敢えて飛び込もうとしている前途ある若者が、教材や検定料や交通費にお金を投じ、場合によっては何度も、何種類も「英語能力に関する外部試験」を受験する。もちろんその後の選考においても有利に働くのは間違いないだろうが、はっきり言って、現状では免除されるものや採用後の待遇がこの苦労に見合っているとは言い難い。極端に言えば、新自由主義のやりがい搾取ここに極まれりという感すらある。
「大学生なんだからそのくらい努力して勉強して当たり前だ」という、そこのアナタ。私の知る限り、いま教員養成系大学にいる学生・院生はあなた方の想像もつかないぐらい、現職の教員の人もひょっとしたら知らないぐらいhecticなカリキュラムと日常を生きている。今ぎゃーぎゃー騒いでいる大人たちだったら、耐え切れず中途退学か進路変更してるんじゃないかってぐらい。無責任な人たちの無責任な決定によってホワイトリストは増え続け、教職入門、教育実習の事前事後指導、介護等体験、教職実践演習、ボランティア活動、エトセトラエトセトラ。さらには採用を考えると取得免許数は多いほうがいいんですって。じゃあ小学校と中高と、英語と音楽と…。彼らは上記の「努力」を、この合間にしなければならない。経済的にバイトをたくさんしなければ学資が捻出できない学生が以前より増えている状況で、だ。書いてて泣けてきた。じゃあ勉強に専念できるように給付型の奨学金くださいよ。「4年間ないしは6年間学費無償にするから、目一杯修行してセルゲームに臨んでくれ」ぐらい言ってから要求してくれ。
知りもせず外側からやいのやいの言っている人にもせめて、英検準1級(というか3級以上)は一次試験と二次試験があり、「満点の70%前後」で合否が決められるものであることは知っておいてほしい(英検自体の信頼性問題…には今は触れないでおこうね)。1点で泣いている学生を複数見ているだけに、彼らの英語教師としての英語運用能力、英語指導力に難癖つけるやつがいたら私が容赦なくギャリック砲を喰らわせてやる。
冒頭の日経新聞の記事では前年調査との比較しか出ていないが、文科省のデータを辿ると、高校教員の「英検準1級以上等を取得している教員」の割合で
- H22(平成22年7月1日調査)、48.9%
- H23(平成23年8月8日から平成23年10月3日調査)、52.8%
- H24(平成24年10月23日から平成25年1月11日調査)、52.3%
- H25(平成25年12月2日調査)、52.7%
- H26(平成26年12月時点調査)、55.4%
と5年で数%増えている。これをどう見るか。エラい人たちが「教育の惰性の強さを思えば順調に増えているじゃないか」と思ってくれれば御しやすくはあるが、この割合は分母(該当教員数)の増減の影響が大きく、そもそも県によるバラツキが大き過ぎるので、年寄りが退場してインセンティブに追い立てられた新人が増えたことによるものかどうかすらこれだけでは何とも言えない。でも、環境が良くなったわけでもないのに、数字として増えてるんだから責められるいわれはないだろう。むしろ褒めてくれよ。
私個人の見解としては、待遇改善を除けば、教員に「英語能力に関する外部試験」の受験を求めることの一切が不要。自分の英語運用能力を把握する指標として利用したいとその教師が思えば利用すればいいだけの話で、上から外からとやかく言うことではない。その人が英語教員としてどうかということで言えば、直接話し、書いたものを読み、授業を観せてもらえばそれで十分わかる(むしろ外部試験の結果に頼らないと判断できないということのほうが問題だ)。外部試験による「英語力」の証明はどうでもいいから、良い授業が作れること、良い英語指導ができることを授業で示してください、という感じ。
ほんと、やれやれだ。
→補遺
亘理先生、よくぞ言って下さった!最後の「個人的見解」私も全く同じ意見です。教員採用試験に合格して研修を受けて教員になった人たちに外部試験を受けさせる意味が理解できない。このままでは日本の教育全体が委縮して行くばかりです。教員たちがそれぞれの能力と個性を発揮し楽しく教えることができる環境を作らなくては、生徒や学生が楽しく学ぶこともできない。(「楽しい」を意図的に繰り返してます。)
亘理先生のように明確な意見表明を(上手く)してくれる方が増えることを願っています。 –応援団のおばちゃんより–
がんばれば、良いよ。だって、みんな、すごい先生なんだもんね。先生。いやあ、先生。
通りすがりの門外漢ですが、外部試験はけしからんなどと言ってないで、準1級くらい、素養があるならさっさと取ってしまったらどうですか?あの程度の試験(旧帝大入試の二次試験レベルよりははるかに簡単)すら受からない人が他人に英語を教えるということ自体が信じられません。こんな理屈をこねている教官が教育学部にいる限り、日本の学校の生徒たちは英語が出来るようにはならないでしょう。授業構成、英語指導云々の前に、絶対的な素養の問題ではないですか?。25メートル泳げない人が、水泳教授法について云々言っているように聞こえますが??実力があるなら、ごちゃごちゃ言ってないで学生たちにはさっさと1級(無理なら準1級)とらせてしまって下さい。
誤解のないよう申し添えておけば、私個人の見解にかかわらず、学生たちは自身の判断により必要な資格・検定を取得しています。卒業までに1級もしくは準1級を取得する者はむしろ昔より増えていると言ってもいいでしょう。私がここで述べているのはただ、上から(しかも自己負担で)押しつけられる性格のものではない、ということです。藪医者さんはおそらく、教育とそれに関わる専門職について私とは根本的に違った考えをお持ちなのでしょう。「さっさととらせてしまう」というような発想を私はしませんし、大学教員として(正式には今は「教官」ではありません)そのような姿勢で学生と関わることはこの職にある限りないでしょう。
私自身は日常業務や国際学会での発表等で英語を使用していますが、英検を取得する必要性を感じたことはありませんし、少なくとも英語使用者との実質的なやりとりの中でそれを持っていないことによって不利益を被ったこともなく、(当然ですが)海外でそのことが話題にのぼったこともないので、今後もその予定はありません。それによって「25メートル泳げない人」とみなされようが私の英語使用に支障はありませんし、自分の外国語運用能力をそういう形で他人に判断してもらう必要は認めませんので。
通りすがりの素人の暴言に、迅速に真摯な御回答をいただき有難うございました。てっきり掲載削除されるものと思っておりました。
まずは、さぞ御気分を害されたことかとお詫び申し上げます。
私は、教育には門外漢ですが、まさか先生が「25メートル泳げない人」などとは思っておりません。先生のようなレベルの英語力の方は、英検など意味が無いだろう(不要)ということも理解できます。私の周りでも、本当に英語が出来る人は、英検など受けていません。
先生の仰るように、英検の受験結果と、生徒に英語を教える能力が別物であることも理解できます。英検はあくまで実用英語の運用能力の一部を見ているだけであって、教授力を評価しているわけではありませんから。それはTOEFLでもIELTsでも同じことですね。
しかし、他人に教育するには、その学問に対して最低限の素養が必要で、英語であれば最低限の英語の運用能力は必要ではないでしょうか?
英検準1級は、英語力としては決して高い水準のものではありません。英語のプロであるはずの英語教員(特に高校教員ならなおさらです)が、あの水準の試験を受けて落ちる・・・。ということが門外漢の素人には信じられないのです。英検準1級を受験して落ちる、という方は、やはり水泳で例えれば25メートル泳げていないのではないのでしょうか?
“英語の教師として優秀な学生が、1点違いで準1級に落ちて泣いている”とのことですが、受験準備をして受験してあの程度の試験に落ちるような英語力の方が、失礼ながら本当に英語教師として“優秀”なのでしょうか? そのような先生方に教育される生徒たちに、果たしてこれから世の中で必要となる英語の運用能力が身に付くのでしょうか?(先生のギャリック砲を喰らわせられそうですが…)
確かに英検は、上から押し付けられる性格のものでは無いと思いますが、先生方が優秀であると折り紙をつけ、英語の教員免許を与えて世に送り出している学校の英語教員が、準1級レベルの試験に落ちるということであれば、教員免許を与える際の基本的な英語力の評価方法に問題があるのではないかと思ってしまいます。そうでなければ、そもそもおっしゃるように外部試験など必要ないと思いますし、そんな議論も出てこないと思います。現状の学校の英語教師の英語運用能力に問題があるからこそ、外部試験で再評価せよという声が出てくるのではないでしょうか?
無知な素人の暴言で誠に恐縮ですが、恐らくこれが世間の一般素人(生徒の保護者も含む)の感想だと思います。たびたび失恋なもの言いをいたし申し訳ございませんでした。長文失礼いたしました。
先生のますますの御活躍をお祈りしております。
書き込みがくどくなりますが、これで本当に終わりにしますのでお許し下さい。
理想論かもしれませんが、学校の先生は、生徒にとっては憧れの対象であって欲しいです。「あんな大人になりたい…」と思うような・・・
文科省が、高校卒業時点で生徒に英検2級または準1級レベルの英語力が望ましい、としている時に、生徒を教える先生が準1級に落ちてしまうようでは、生徒はがっかりです。
「英語の先生=憧れの1級ホルダー(またはそれを目指して努力している人)」となれば、生徒の英語学習のモチベーションもぐっと上がるのではないかと思うのですが、現状ではそれはなかなか難しいことなのでしょうかね・・・
実は、私の弟は先生のところと同じような国立大学法人の教育学部を卒業して、高校の英語教師をしています。彼は一応準1級は持っていますが、1級は目指さないのかと尋ねると、「学校の教師は、学級運営や校務分担、部活の世話なとやることが多すぎて、塾の先生みたいに、英語の勉強と講義だけしていれば良いのと違うから・・・」などと言い訳をしています。実際その通りなのでしょうが、それでも中学、高校にも1級ホルダーの先生方もみえる訳ですから、何とか頑張らんかい!!と言いたいところなのですが・・・
そんないろんな思いがあって、最初の過激な書き込みになってしまいました。申し訳ございません。
皆(先生も生徒も)が楽しく前向きな気持ちで資格試験にチャレンジできるようになると良いですね。
御多忙のところ、素人のつまらぬ書き込みにお目通しいただき、有難うございました。
また板汚しをしてしまい、申し訳ございませんでした。
私の見解は元記事に書いた通りですが、「現状の学校の英語教師の英語運用能力に問題があるからこそ、外部試験で再評価せよという声が出てくるのではない」かというご指摘は、当たっていると思います。私は、そういう世間の外国語(教育)観が何より浅薄だと感じており、体制も環境も整えず要求ばかりが肥大するこの現状こそが英語教員を(授業づくり以外の瑣末なところで振り回し)全体として疲弊させていると思うわけですが。
「教員免許を与える際の基本的な英語力の評価方法に問題があるのではないか」ということは確かに実体としてあるかもしれませんが、教員免許は養成課程で(教育実習等を含め)所定の単位を修得すれば与えられるもので、「英語力」の評価は全体としては間接的なものに過ぎません。いくつかの授業では確実に「英語力」が求められますから、その水準を厳しくするということは可能でしょう。ただ、英語教員の「英語力」はむしろ、各自治体が実施する採用試験で直接的に求められることになりますが、上や他の記事で述べたように、現状として教員という仕事は、世間が素朴に期待するような高い能力水準に達する者のみを採用することができるような好条件を提示できているわけではなく、そもそもそうしたことを条件に採用の間口を厳しく絞れるほどのバッファがあるわけではありません。上の世代の人件費等が若い教員の正規採用数を抑えているにせよ、講師であれ退職教員の再雇用であれ、最低限の人数がいなければまわりません(だからこそ人口の少ない自治体では、間口が狭いことによって自然に、都市部と比べれば「英語力」の高い教員集団を確保することに成功しているわけです)。理想で公教育はまわらないのです。
このことはもちろん、英語教員の「英語力」が低いことの言い訳にはなりません。実際、私は英語教員の英語運用能力が低くていいとは決して思っていません。ただそれを示す手段が英検等の外部試験である必要はない、というだけです。さらに言えば、仰る通り「本当に英語が出来る人」を育てたいなら、生徒も先生も国内でしか通用しない外部検定試験を「憧れ」としているようではダメで、実際に英語使用者として何かをこなしている姿を見せる方がはるかに「憧れ」として望ましいのではないでしょうか。
最後に、「受験準備をして受験してあの程度の試験に落ちるような英語力の方が」「本当に英語教師として“優秀”なの」かということについて言えば、教職としての成長過程をどう考えるか、そこの認識の違いかなと思います。教員は、養成課程を卒業すると同時に教員として完成するというような職業ではありませんし、一人の教員に責任を押し付ける限り、藪医者さんが求める教育は実現しないでしょう。