[レビュー015] PISAって10回言って
前の記事で言及した文献。
- アマンダ・リプリー(北和丈(訳))(2014).『世界教育戦争: 優秀な子供をいかに生み出すか』中央公論新社.(Ripley, A. (2014). The smartest kids in the world. Simon & Schuster.)
釣りっぽい邦題にされてしまったが、PISA、PISAいう割にはこの調査のことや諸外国の事情をよくわかってねーな(じゃあここは?とヒジを指してみよう)という人が少なくないので、もっともっと読まれるべきだ。とっても読みやすく訳されている。
学術書ではないが、主張の根拠は逐一明示されており(本来当たり前のことだが)ちゃんとしたジャーナリストが書いた本!という感じ。アメリカからフィンランド・韓国・ポーランドに留学した3人の高校生の体験を追う形で、彼らの周囲の人々や、アンドレアス・シュライヒャーらへのインタビューがモザイク状に組み合わされて話が展開していく。著者自身がPISAを受験したりもしている(日本でPISA(の結果)に言及する人たちの内どれくらいが実際の問題や生データを見たことがあるのだろうか)。
こういう本は特に英語教育界隈の人たちに薦めたい。著者は全体として、教員養成に対するトップダウンの教育行政的介入を支持しているが、これに同意するかどうかはともかく、規模の違いを無視してフィンランドや上海ばかりを引き合いに出す人たちや、なぜだかアメリカの教育制度をマネようとする流れに対して自分の意見を持つためにも一読して損はない。
前記事で引いた以外に印象的だったのは、例えば次の一節。
スポーツに様々な利点があるのは間違いない。体の鍛錬は言うに及ばず、統率力や忍耐力を養うことにもなる。だが、わが国の高校について言えば、実際にスポーツを行っている生徒はごく少数にすぎない場合がほとんどである。つまり、本当は体を鍛えてなどいない生徒が多いのであって、それが肥満率の高さとして表れているのだ。また、統率力や忍耐力を養うことはもちろん貴重な経験だが、同じことは厳しい学業を通じて、しかもより実生活に直結した形で行うことも可能なのである。アメリカの学校は、一部の生徒にだけスポーツを通して統率力や忍耐力を与える代わりに、すべての生徒から学業のための余力や集中力を奪い取っているのだ。
だからといって、スポーツが教育とは両立しないと言っているのではない。そうではなくて、スポーツは教育と何の関係もないと言っているのである。(中略)アメリカの場合には、歴史的に言えば、裕福さゆえに厳格さが不要になったという側面がある。子供が複雑なことを学び取らなくても、人生で成功を収めることが(この先はともかく、最近までは)できたのだ。その結果、学業以外にも、スポーツをはじめとして様々なものが教育制度のなかにひしめき合うようになったため、各校長はコーチもこなせる教員(あるいは教員もこませるコーチ)を雇用せざるを得なくなった。学校とスポーツによるこの堕落した癒着関係によって、学生スポーツ選手は始業前も終業後も、異常なまでの精力と時間を練習に費やしているわけである。
もちろん、スポーツそのものを単体で見れば、これといった非があるわけではない。けれども、物事は単体で存在するものではない。難易度の低い教材、子供の貧困率の高さ、教員の競争率や学識の低さと連動すれば、どんなに素晴らしいスポーツでも、わが国の生徒たちの学業に対する意欲を削り取る作用を及ぼしてしまう。スポーツを優先する姿勢から生徒たちが読み取るのは、教室での勉強なんて大事なものではない。そんなことをしたって偉くなれるわけではない、ということだ。かくして生徒の意欲が殺がれてしまえば、そもそも教育の方程式がまるで通用しなくなるわけだから、そんな現場に勤める教員の苦労は察するに余りある(pp. 176-178。下線は引用者による)。
どうしても日本の部活指導の話を思わずにはいられないだろう(実を言えば、小さくは運動会、大きくは甲子園で騒ぐ世の中にも私が少なからす感じていることだったりする)。尤もアメリカの場合はこの経験も少なからず進学時の資料にできるのかもしれないが、日本の場合、一部の特待生的な生徒を除けば…というのが余計に哀しさを増すところだが。