[本009]『我々はどのような生き物なのか』(チョムスキー, 2015)

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卒論・修論添削の合間の年末年始読書。

第1講演のほうは、ミニマリスト以降の生成文法の考え方について今までで最も分かりやすい解説だった印象。第2講演のほうは質疑応答がアツくて非常によかった。公開の講演としてはかなり高度な議論もしているので易しくはないが、人物も内容もよくわかっている人が訳しているので読みやすい。入門書の後に読むといいだろう。

なるほどと合点がいったことがあったのは、訳者による「ノーム・チョムスキーの思想について」の次の一節。

さて、チョムスキーの言語学研究においても、また彼の政治社会的活動においても、これほど理性の役割が決定的だとすれば、「理性」概念と格闘した経験を持たない日本社会において(中略)、チョムスキーの政治社会思想が真剣な関心を持たられることもなく長い間、いわば放置されてきたことは、自然なことであると言える。むしろ、なぜ彼の言語学説が受け容れられたのかのほうが不思議なのである。こうして考えてみると、実は、チョムスキーの言語学説は、思想としてではなく、一種の技術として変容を受けてから日本に輸入されたのではないかという可能性が心に浮かぶ。そう捉えれば、変換文法は盛んに論じられても、例えば「デカルト的言語学」の概念は、(少数の哲学研究者を除いて)ほとんど議論の対象にもなっていないことにも説明がつく。総じて、言語学的議論においても、チョムスキーの著作の技術的側面には多くの人びとが関心を抱くが、背後にある「言語基礎論」的な面に対する興味は、日本においてはほとんど感じられないのである(pp. 200–201)。

私自身も読んだのは言語学説のほうが多いが、『チョムスキーとの対話: 政治・思想・言語』や『メディア・コントロール: 正義なき民主主義と国際社会』など、選り好みせずに色々読んできた。

そもそも私にとって彼の言語学説は技術ではなく、上記の『デカルト派言語学: 合理主義思想の歴史の一章』や『言語論: 人間科学的省察』、『ことばと認識』、『生成文法の企て』などを通じて鍛えられたのは、徹頭徹尾、思想であり言語観・人間観・認知観、あるいは学問観であった。その点、修論・博論の副査をしていただいた上田雅信先生(『生成文法を学ぶ人のために』など)のもとで、科学哲学の文脈で生成文法の方法論的特質を学べたことが大きい。博論を書く人はAspects …の第1章だけでもどこかで読んでおいて損はしないと推すのも同じ理由。

一方、外国語教育研究。最近、読書会で

を読んでいるが、generative perspectivesかそうじゃない立場かといった言葉があちこちに出てくる。例えばVanPattenファミリーによるprocessing instruction (PI)なども「生成文法的な習得モデル」と説明されることがあるようだが、ソフィア・レクチャーズを読めば、全然「生成文法的」ではないことがわかる(そもそもこの分野の議論の多くは「原理とパラメータ」かそれ以前で止まっていることが多いのだが)。彼らが主張する”First Noun Principle”などはその最たる例で、言語規則の構造依存性を無視しますと言っているようなものだ(そもそもPIの諸原理は彼ら自身のスペイン語指導から経験的に引き出されてきた部分が大きいらしいから、むべなるかなという感じだが。PIについては明示的文法指導とのかかわりで論文できちんと批判的に論じたいと思っている)。句構造規則や統率・束縛理論などが「一種の技術」として摂取されるだけで、どういう考えや方法論のもとにそれが提示されてきたかを理解する機会が十分に得られていないとすれば不幸なことだ。

英語版も読もう。

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