[レビュー023] タスクのやりやすさ/やりにくさ研究の占める位置(Skehan, 2016)
私の記録が正しければ、Skype読書会も通算で35回を超えた。4月からARAL最新号の記事を順に読んでいる。2回目は、
- Skehan, P. (2016). Tasks versus conditions: Two perspectives on task research and their implications for pedagogy. Annual Review of Applied Linguistics, 36, 34–49. doi:10.1017/S0267190515000100
を検討した。
タスクのパフォーマンスへの影響を調べる研究に、(a) Robinsonたちに代表される、タスク自体が有する変数(要素の数やその組み合わせ)を考えるものと、(b) Skehanたちに代表される(事前プランニングや時間制限の有無など)タスクの実施条件を考えるものがある。
本論はざっくり言えば、(1) これまでの研究を概観すれば、(a)の効果は語彙の豊かさと正確さで示されているに過ぎず、(2) (b)のほうが、特に統語的複雑さに対して一貫した堅牢な結果を示しており、(3) Levelt (1989; 1999)のL1スピーチ・モデル(概念化・言語化・調音)を当てはめると、その結果がうまく説明できるよという、わりと、いや、かなり我田引水な論文。
これまで、(a)にしろ(b)にしろ、タスク研究としての重要性がイマイチつかみきれずにいた。タスク自体の要素の数の多寡を考えるといっても、そこで提案されている変数は、それがどこまで教室や現実世界でのタスクに影響を持ち得るか微妙なものだ。例えば、アイアンマンやアントマンが好きな学習者が、登場人物が多いという理由でシビルウォーの鑑賞を敬遠したり理解できなくなったりするとは考えにくいし、過去の出来事のほうが話しやすいからといって自己紹介より歴史上の人物の説明を優先させたりはしないだろう。他方、事前に何かしら準備できたほうがタスクがやりやすくなるであろうことは想像に難くないが、何を準備しているのか、準備の過程の何がタスク・パフォーマンスに効いているのかは必ずしも明らかではない。
食事としての野菜や肉や米のバランスを話すべき時にドレッシングの種類やかけるタイミングの話をされているような、デートの結果お付き合いできるかどうかが問題なのに、ホットドッグ・プレスで事前にしっかりデート・プランニングしたほうが高度なデートができるよ!と言われているような不全感。平たく言えば、実践的にはトリビアルでどうでもいいことにこだわっているように思えて仕方なかったのだ。読書会メンバーのほとんど全員が、ここで論じられている要因のようなものがあったとしても、それにとらわれずやりたい活動を投げかけて学習者を巻き込んでしまうタイプだということもある。
読書会の最中もそういう趣旨の議論にはなったのだが、そもそも、これらは「タスク研究」というよりも、「タスクのやりやすさ/やりにくさに関する研究」だと考えれば、(少なくとも自分の)モヤモヤが多少晴れることに後で気づいた。正確に言えば、依然として(実施条件を含めたとしても)タスク内要因が「タスクのやりやすさ/やりにくさ」に関わる要因全体に占める割合って、それほど大きいものじゃないんじゃないの?という疑念は募る(下図参照。私の印象としてはこれぐらいの感じ)。ただ、疑念の正体が明確になったのだ。
図. タスクのやりやすさ/やりにくさの要因とその構成割合
上でも触れたように、このトピックの研究では、何らかの形で操作化されたComplexity, Accuracy, Fluency (CAF、統語的複雑さと語彙の豊かさはCとして一緒にされることも多いが、Skehan, 2016は(a)と(b)の研究結果の違いを明確にする目的もあって、 Cを統語的複雑さの意味のみで用い、語彙の豊かさをLexis, Lとして区別している)を指標としてタスクのパフォーマンス(の変化)を示してきた。Robinson一派もSkehan一派も、「タスクのやりやすさ/やりにくさ」に関わる変数がCALFのどれに影響を与えるのかを見ようとしているというわけだ。タスクの配列を考える際、この「やりやすさ/やりにくさ」は一つのファクターにはなる。
読書会中に投げかけられたのは、まさにこのCALFが「タスクのやりやすさ/やりにくさ」を見る指標として適切なのかということだった。操作化が妥当なものだとして、そのCALFの数値が高ければ、複雑で正確で語彙的に豊かで流暢な言語使用をしているということになる。しかし、だからなんだというのだろう。産出を求めるタスクに限ったとしても、その達成とCALFの高低との関係は間接的だ。確かに言語的やりとりが多く求められるタスクであれば、複雑で正確で語彙的に豊かで流暢な言語使用ができている人はタスク自体もうまくこなせているんじゃないかと推察はできる(おそらくCALFをタスク研究の指標としてきた人たちはそういう前提を持ってきた)が、必要最小限に的確な言葉遣いしかしないキレ者もいたって良いわけで、お喋りであることはタスク遂行能力を保証するわけではない。複雑で正確で語彙的に豊かで流暢な言語使用をしている人とペアやグループでタスクに取り組んでいればそれだけインプットが…とこじつけることもできそうだが、やはり苦しい。
実際、CALFの研究動向としては、CALFだけではダメでCALFプラス何を…という議論になっているようだ。読書会のメンバーはもっとシンプルに「タスクが達成できたかどうか」(Task completion)だけで測ればよいという意見で、Long的なタスクの定義に照らせばその方が整合的だと私も思うが、第二言語習得研究のたどってきた歴史的事情としてCALFのような言語的指標を放棄するのは難しいだろう。そして、達成できたかどうかの操作化、線引きも言うほど簡単ではないだろうとも思う。モヤモヤした論文とはいえ、以上のことが自分の中でクリアになったので読んで損はしなかった。
それにしても、「何より各人が実生活の必要性に即して学ぶべきで、他人に予めそれを強制されるのはまっぴらゴメンだ」と冒頭の記事でタスク愛を叫んでいたLong (2016)と比べて、学習者がそれを望むかどうかといったことに関係なく、やりやすさは操作(manipulate)できるという考え方を平気でする辺り*1、事前プランニングの結論として「この先生の課すタスクはやりたくないな!」という思考がまとまったのだった。
*1 最後の”There are no materials or books to buy, or technology to obtain—giving planning time or requiring a task to be repeated are activities the teacher can use whenever they want, and without costs!” (p. 45)という一文に象徴的に示されている。