[レビュー031] 『授業づくりをまなびほぐす』(阿部・伊藤, 2017)
渡辺 貴裕さん(東京学芸大)の薦めで手に取り、興味深く拝読した(著者の一人は勤務先で教職科目を担当してくれていたのだが、残念なことに、その間に交流を持つ機会はなかった)。
- 阿部 学・伊藤 晃一 (2017).『授業づくりをまなびほぐす: ここからはじめるクリエイティブ授業論』静岡学術出版.
第2部の夜間定時制高校での実践報告は、「夜間定時制高校」という特殊性によらず(もちろんそれは重要なファクターで、そこに光を灯しているからこそ輝く報告であるのだけれど)、生徒と教師が心からやってよかったと思える授業づくりと、その先での教科の学びの考察にとって極めて優れた報告である。
前後のいわば理論編は7割がたイライラ。結論から言えば、教育内容の扱いがあまりにも粗い。言い換えれば、教育内容構成論が浅すぎる。例えば、第1章で藤岡(1991)の「授業を構成する4つのレベル」の限界を指摘するために学生Aのエピソードが述べられているが、率直に言って、この報告のうちのどこを以て「『教育内容』を検討し」たと言えるのか、私には分からなかった。第2章で情報モラルに関する教材が例に挙げられているが、「『炎上』するサイトで実名を出してはいけないということ」は果たして教育内容と呼び得るものだろうか(それ自体が知る必要のない情報だと言うつもりはないけども)。
それは、徹底的な視写の作業とフィードバックを通じて、読み書きに必要な基礎能力をつけながら「本を深く、丁寧に、読み切る」とはどういうことなのかを教えようとし、蹴鞠を実際に作り遊んでみることを通じて、学び方の開拓も含めて、『枕草子』の「さまあしけれど、鞠もをかし」の解釈を生徒にとって真に意味のあるものにしようとした第2部の実践とあまりにも対照的だ。ここには、著者=実践者が「教育内容」という言葉で意識しているかどうかにかかわらず、私が学び理解してきた意味での「教育内容・教材の検討」が確かにあるし、読んでいる間に、教育内容構成の問題としての生産的な疑問や、指導過程をもっと深められそうなアイデアが次々浮かんでくる。
私自身がマンガとゲームで育ち、『ドラゴンクエストⅤ』と『タクティクス・オウガ』が未だに世界最高のゲームだと思っているぐらいだから、著者の主張は各論としては頷く提案も少なくない。しかし、もし第2部で報告されている実践が、著者たちが言う、教材を「デザイン」する「新しい時代の教材づくり」の可能性を示すものなのだとすれば、それこそまさに、仮説実験授業や水道方式等、戦後の優れた教育実践が切り拓いてきたもの(藤岡, 1991が典型例としてきたもの)ではないか。その蓄積を「教材の『発掘』から『デザイン』へ」と批判したところで、そこに「パラダイムシフト」などと盛った言い方が受け容れられるほどの驚くべき違いがあるわけではなく、過去に謙虚に学ぶ重要性は増すばかりだ。
佐伯胖の「ドーナッツ論」が授業解釈に恣意的に用いられていることの指摘(第7章)はそれとして納得できるが、それを(客観主義と対立させた)構成主義的学習観としてのみ受容し、対象の真理性に関してかなり素朴な議論しか与えられていないことに危うさを覚える。学習者にとっての〈THEY〉が可変的で流動的なものだとしても、当然ながら学習内容(対象世界に関する真正性)が常に可変的で流動的になるわけではない。そこでむしろ問われるべきは、ゲーミフィケーション的学びにおける、ゴールやルール、分岐のパターンや世界観を決める「神」は誰で、それはどのように正当化され得るのかということだろう。授業解釈の理論的枠組みの恣意性について言えば、いかようにも解釈できてしまう言葉遊びの危険性は、ゲーミフィケーションの原理や枠組みとて無縁ではない。その意味で、教授・学習の過程における学習者にとっての「リアリティ」と「ファンタジー」の把握(この区別に教育内容構成上の概念として、意味があるとすれば)もやや単純化しすぎだったり恣意的だったりするとのそしりを免れないだろう。以上の全てが、教育内容構成論が弱いことに起因するものであるように私には思える。
第3部では教育的折衷主義(ecleticism)を主張しているようでありながら、経験の浅い3人の教員のインタビューから「教師のフレーム」をステレオタイプ的に提示してゲームクリエイター的「フレーム」を優位なように提示したり、やはりゲーミフィケーションを「魔法の杖」と絶対視し、そちらに誘導しようとしている感は否めない。(サンプルサイズの問題は措くとして)最後に種明かしをしているように、経験のある教師のフレームがむしろ後者と重なるものであったとすれば、経験の浅い教員がそこに至る過程でキーとなるのは何なのか、その分析こそが必要ではないのか。著者がここで用いたレトリックのように、種明かしの「種」を知っているのがゲームをデザインした者だけで、その神たるものがこしらえた箱庭の中にのみ授業があるとすれば、ゲーミフィケーションの原理は私にとって「魔法の杖」でも何でもなく、いやらしい仕込みと演出でしかない。
敢えて信念として感想を提示しておけば、むしろゲームクリエイターたちが全く触れなかった「教育内容」に対峙し続けることこそが教師の成長の鍵だと思うし、むしろその点で、経験のある教師の「フレーム」を「ゲームクリエイターのよう」に捉えるよりも、両者を分かつものに目を向けることこそ重要なのではないか。そうやってつらつら考えると、いろいろ感じて考えてもらいながら、私が本書のどこになぜイライラし、どこになぜ感心・感動したかを共有するのに、ゼミで本書を取り上げるのもアリかもしれないと思えてきた。