[雑感066] 社会的な話題の扱いについての覚書
前記事の「検定教科書に同情した補足」の続きのようなもの。
2月の東大講演でも触れたが、検定教科書の泣き所は、学習指導要領に準拠する以上、一冊の中で必ずその要求を満たす必要があるということだ。例えば「コミュニケーション英語Ⅰ」に掲げられている各技能の目標を満たせる教科書であるためには、日常的な話題も社会的な話題も必ず入っていなければならない。一方、高校卒業までに到達させたいとされているCEFRのA2レベルまでは、日常的で身近な範囲の話題でカバーできる。CEFRのスケールだけで見れば、「コミュニケーション英語Ⅰ」を履修する時点での大半の高校生はA1(以下)のレベルにあり、 社会的な話題で聞いたり読んだり話したり書いたりする必要はないのである。
もちろんこれは、高校生が社会的話題に触れることを必要としていないという意味ではない。CEFR的なskill-basedの枠組みに基づく限り、学習者のレベルと社会的な話題は噛み合いにくいということだ。だから、社会的な話題を扱っているレッスンで何らかのパフォーマンス課題を行おうと思えば、話題を生徒の身近な場面・状況に置き換える工夫が必要となる。都市と地方の生活上の課題という話題であれば、生徒たちが居住する町とどこかの(生徒たちにとって経験・知識のある)地域との比較で論じるとか、自分には縁遠い著名人のストーリーを身近な誰かに当てはめたり自分との関わりを何とか見つけてみたりといった形で。既に多くの学校で多くの先生が工夫していることだが、総じて生徒にとってはイマイチ面白くないものになりがちだ。地球規模の環境問題に対する取り組みの話を読んだ後で、エコバッグやマイ箸の例を挙げたって、読んだことが活かされている感じはあまりしないし、認識や世界が前に進んだ手応えも得にくい。
身近な話題の強みは、パーソナルな経験に依拠して技能の発揮に集中できることだ。社会的な話題の場合(L1でであれ、L2でであれ)それについての知識が十分になければ、技能を発揮する手前のところで詰まってしまう。そしてここの接続がうまくいっていなければ、身近な話題に落としてもわざわざ社会的な話題を扱ったありがたみは感じにくい。
これに対する一つの解決策は、社会的な話題についてはskill-basedの枠組みで扱うのを、特に産出技能のパフォーマンスを求めるのをやめてしまうことだ。学習指導要領上、あるいは今の英語教育のトレンド上、あまり同意は得られそうにないが、純粋に知識を得るものとして、さっと扱うという選択はあって良いと思う。社会に目を開き、様々なことに興味・関心のウィングを広げる時期であるはずの高校生に訴えるものがあれば、純粋に「へえ」と思わせて、そこはかとなく知識と思考を深めるものであっても良いと思う。そこで受容技能の指導に傾注するレッスンとする工夫も十分可能だろう。そうしたことを考えた時、受容技能の指導についての引き出しを高校の先生がたがどの程度豊富に持っているかということを考える。いつだって話すことばかりに課題の意識は向きがちだが、そこにこそ課題が多くあるように思う。
貴兄の文章とは無関係だが……
9月27-29日に教育史学会参加のために静岡大学を訪問予定。貴兄に御目にかかりたし。御都合や如何に。