[雑感071][対話編] アセスメントの規準をアセスメントする
次期学指導要領のもとでの評価に関する対話編。このままでは、おそろしくつまらない言語活動やパフォーマンス課題がはびこるか、知識・技能に関して著しく妥当性の低いアセスメントが溢れるかが懸念される、という話。
やあやあ、今日はどういう話ですか。
次期学習指導要領での評価のことです。
- 山田 誠志 (2020).「目標と指導と評価の一体化: 評価の観点・評価規準」『英語教育』63, 13, 10−13.
を読んで、ちょっと、いや、だいぶ気になったもので。
2019年度末に示されるという学習評価に関する参考資料に基づいた記事ですよね。
12月時点の案は、検索すると出てきますが。
Cf. 愛媛県教育委員会|国立教育政策研究所資料「指導と評価の一体化」のための学習評価に関する参考資料(案)
はい。評価の観点が、現行の4つから、「知識・技能」、「思考・判断・表現」、「主体的に学習に取り組む態度」の3つに変わることは耳タコ周知のことと思います。
外国語科の場合、目的・場面・状況に応じた言語使用を「思考・判断・表現」の能力の発揮とみなすやつですね。
例えば「話すこと[やり取り]]の場合、中学校の目標(ア)は、
- 関心のある事柄について,簡単な語句や文を用いて即興で伝え合うことができるようにする。
となっています。これに関する「思考・判断・表現」の評価は、
- 【目的等】に応じて、【事柄・話題】について、簡単な語句や文を用いて、【内容】を即興で伝え合っている。
が基本的な形となるそうです。
【XX】の部分を具体的な内容で置き換えるわけですね。
差し込み印刷のフォーマットみたい。そんなに機械的にいくかな。
参考資料を見ると、必ずしも(ア)(イ)(ウ)ごとに規準を設定しなくてもいいようなのですが、ともあれこの評価規準の定型文に「言語材料」が入っていないことはある程度評価できます。
さすがYANGさん、メタですね。
かえって議論をややこしくしてる気もしますが、評価法を「評価」しちゃう。
それは何故ですか?
目的・場面・状況に応じた言語使用を求める(表現内容の適切さを評価する)のであれば、具体的な言語材料を特定したり限定したりすることは難しいからです。
ここで例示されている「AIに関する記事を読んでペアで意見交換をする」というパフォーマンステストについて言うと、自分の考えたことや感じたことを表現する手段は無数にあります。
“AI will make our lives happier. What do you think?”に対して
“Despite knowing the journey and where it leads, I embrace it, and I welcome every moment of it.”
と答えてもいいし、
“Quite an experience to live in fear, isn’t it? That’s what it is to be a slave.”
と答えてもいい。
“where it leads”を”the destination”と言い換えたり、”isn’t it?”を付けなかったらこのメッセージが伝わらないということもないので、「間接疑問」とか「付加疑問」などと指定できるわけではありません。
前者がArrival (2016)からの引用で、後者がBlade Runner (1982)からの引用ですね。
即興でそんな引用をする中学生はまずいないと思いますが、要するに、目的を達成する手段は1つではないと。
そうです。2つでも3つでもない。
もっと単純な例を挙げると、「好きな動物は何?」という質問ですら、
“What animals do you like?”
と訊かなければならないということはないわけです。目的が「相手の好きな動物を尋ねる」ということである限り。
そういう表現を学習者が知っているかどうかはともかくとして、
“What is your favorite animals?”
でも良いわけですもんね。
なんなら
“I like dolphins. How about you?”
でもいいし、いざとなったら
“Do you like dolphins? No? Do you like gorillas? No? Do you like hedgehogs? …”
でも何とかなるわけです。
なるほど。むしろ、手持ちのレパートリーからどういう表現手段を用いて、目的・場面・状況に応じた言語使用をしようとするかこそが重要という気がしますね。
そのことを先生がたに理解してもらうべきとして、この枠組みの何が気になるんですか?
パフォーマンステストの例については、「知識・技能」を「英文の(文法的)正確さ」という基準でしか見ていないことが大いに疑問ではありますが、それについては一部後で述べることにします。
いちばん気になっているのは、単元ごとの評価でもパフォーマンステストでも常にこの3観点が並列されていることです。
いけませんか?
観点別到達度評価を求められている以上、先生がたはこの3つの柱に沿ってどうにか評価をしなければならないのでは?
それはそうなんですが、「知識・技能」と「思考・判断・表現」では評価のタイミングやスパンが異なると思うからです。
「主体的に学習に取り組む態度」も当然そうで、そのことは山田 (2020)も、というか文科省もある程度認めています。一部項目について、「特定の領域・単元だけでなく、年間を通じて把握する」(p. 13)などと注釈をつけているわけです。
数時間の授業で態度が変わる、しかもそれが毎単元(評価できる程度に)表れるなんて、ちょっと考えにくいですもんね。
もしあったとすれば、授業以外の要因を探ったほうがいい気がします。
山田 (2020)によれば、「話すこと[やり取り]」の「知識」の評価規準は、
- 【言語材料】について理解している。
が基本的な形となり、「技能」の評価規準は、先ほどの目標(ア)については、
- 【事柄・話題】について、【言語材料】などを用いて、【内容】を即興で伝え合っている。
が基本的な形となるというんです。
「知識・技能」では【言語材料】がガッツリ出てくるんですね。外国語(英語)の「知識・技能」ですもんね。
「知識」の規準の解説には、「【言語材料】には、当該単元で扱う言語材料が入る」(p. 13)とあります。
一方で「技能」については、ちょっと長いんですが、
指導する単元で扱う言語材料が提示された状況で、それを使って事実や自分の考え、気持ちなどを話したり書いたりすることができる状況を評価するのではなく、使用する言語材料の提示がない状況において、既習の言語材料を用いて事実や自分の考えなどを話したり書いたりすることができる技能を身につけている状況を評価することに留意する(p. 13)。
と但し書きが付されています。
でも、3年生の1課の単元事例では、どちらも「受け身や現在完了形」となっているんですよ。技能のほうには「など」がついてはいますけどね。
YANGさん、一度に喋りすぎると顔のアイコンがミジンコのように小さくなってしまうので気をつけてください。
なるほど、この単元の「思考・判断・表現」についての
- 友達の意見等を踏まえた自分の考えや感想をまとめるために、社会的な話題(野菜の歴史) に関して読んだことについて、考えたことや感じたことなどを、英文を引用するなどして伝え合っている
という評価規準を満たす表現手段は、受け身や現在完了形に限らないと。
指導要領話法の文を引用したせいで、YINGさんも相当小さくなってますよ。
教科書の本文を引用しつつ野菜の歴史を語れば、Tomatoes were introduced…などといった文は生徒から出てきやすくなるのは間違いないでしょうが、先ほど話した通り、それが必須というわけではありません。
視点を変えれば能動態でも言えるわけだし、現在完了形に至っては、例えば「tomato history」で検索して最初に出てくるサイトの文章をざっと見る限り全然出てこないぐらいです。
* https://www.tomato-cages.com/tomato-history.html
では、山田 (2020)の注釈にある通り、「技能」のほうには既習の表現を挙げれば良いのでは?
そうなると、小学校や1、2年生で習った表現を全て挙げることになってしまい、評価規準として実用性に耐えないでしょう。
「受け身や現在完了形」だって、学習者が使えると思えば使って構わないわけです。
「(受け身や現在完了形)など」では解決になりませんか?
先生がたは、規準に特定の「言語材料」が書いてあれば、それで評価しようとするでしょう。そうしなくたって、教えられれば生徒たちは「それを使って欲しい」というメッセージを敏感に感じとるわけですから。
そこから何が予想されるかというと、その言語材料を使うよう誘導するつまらない言語活動を課すことになるか、目的・場面・状況の設定との結びつきが弱すぎて、当該の言語材料の理解や正確・適切な産出を評価できない言語活動が展開されることになります。
両者の折衷が、「先生は受け身と現在完了形を使って欲しいんだろうから、自分の言いたいことは脇に置いて、それに沿ったメッセージを作ってあげよう。そうすれば良い成績がもらえる」という生徒の忖度と達観だとしたら、「主体的に学習に取り組む態度」の汚れちまった悲しみがヒドいですね。
だからこの問題は、常に3つの観点を並列した評価規準を設定しようとする限り、解決しないのです。
単元の評価規準の問題を指摘しましたが、パフォーマンステストで言語材料の理解の正確さを問われても困るわけです。そこでのより適切な言語使用のために、正確さの観点からのフィードバックもあっても良いと思いますが、評価の最優先事項は「目的を達成できたかどうか」であるわけですから。
3つの観点の評価は別々にすべきということですか?
「知識・技能」を評価すべき内容や時間のスパンと、「思考・判断・表現」が問われる内容やタイミングは、重なる時もあっていいと思いますが、別々であること、あるいはいずれかの観点を設定しないことも認めないと、結局は形式的な評価にならざるを得ません。
それは、assessment of learningから見ても、assessment for learningから見ても、不幸なことです。
「知識・技能」を評価すべき内容や時間のスパンとは、具体的には?
山田 (2020)を読む限り、「当該単元で扱う言語材料」も「既習の言語材料」もひとしなみに扱われている印象を受けますが、学習者の中でその位置付けは様々でしょう。
特に「正確さ」を求められている状況では、自信の無い文法は使わないほうが無難と学習者が判断しても不思議はありません。
たしかに「野菜の歴史について読んで感じたことを話す」だけなら過去形や現在形でも事は足りそうなので、忖度しない限り、習いたての現在完了を無理して使おうとは思わないかもしれませんね。
「思考・判断・表現」については、場合によっては、それが方略的に優れた判断とさえ言えるわけです。
しかし「知識・技能」については、現在完了形を導入する単元である以上、そうは行きません。現在完了形について理解して、使ってみてもらう必要があるわけです。
その時、問われるのはむしろ過去形や他の時間表現に対する習熟でしょう。
なるほど、新出の「言語材料」と、3年生のそこまでに十分触れたり使ったりしてきた既習の「言語材料」とでは期待できる理解の深さも異なると。
ある中学校で観た2年生の授業の話をします。
動名詞を教えるレッスンで、先生は、その町の観光スポットを紹介する文を書く活動で、enjoy -ingの形を使わせようとしていました。
すでに苦しい匂いがしますね。
ALTの弟が他県に住んでいて、近い内に遊びにくる予定で、どこに連れていったらいいか、というわけです。
生徒の第一声が”Nothing! Nothing!”でした。
こちらとしてはつらいけど、偽らざる本音ですね。
目的・場面・状況に応じた言語使用としては、みんなを笑わせたという点で、かなり機転のきいた応答ですよ。
先生は、そういうことじゃないと、enjoy -ingを使わせる方向に誘導してしまったんですが、この生徒の応答は流すべき終着点ではなくて、むしろ起点だと思うんですよね。
というと?
第一に、彼は彼なりにその設定に応答のメッセージを発しているわけだから、先生であれALTであれメッセージや問いを返すべきでしょう。
“That might be true for us, but according to the statistics, tens of thousands of people visit our town annually. You have seen foreign visitors on the street, right? What bring them here? What do you think?”
などと事実でやり取りを重ねれば、”Nothing!”が生徒の認識であれ自虐であれ、第三者の視点に立ってALTの相談に答える契機となり得るわけです。
たしかに、その生徒が”Nothing!”という認識から一歩も出ないとしたら、いつまで経ってもALTの相談に適切に答えることはできませんものね。
“Nothing!”は捨て去るべき表現でもなくて、後々、
“Actually this is a small town, and a lot of people will say “nothing here” if you ask a place to visit, but …”
みたいな枕として活かすことさえできるわけです。
あの時の”Nothing!”少年がよくぞそこまで。。。
「知識・技能」としての動名詞の指導はここから始まると言えます。
既習の表現を駆使して生徒たちが、どの観光スポットについてどういう紹介の仕方をするのか、そしてそこに動名詞という表現手段があれば、何が(もっと端的に)言えるようになるのかを、具体例を提示しながら理解してもらわなければなりません。
それができないとすれば、そもそも動名詞はこの言語活動にとって必要性が薄いということです。
そうすると、そのような言語活動を単元末を待って初めて行う、という発想も捨てる必要がありそうですね。
その通りです。
そして単元の最初にやってみる際は、新出言語材料について「知識・技能」の観点で評価できるわけがありません。
単元末にもう一度取り組んで評価を行う際も、
- 新出言語材料の意味・用法を理解できたということ
- 活動において当該言語材料を使おうとしたということ
- 既習事項の使用に1回目と比べて改善があるということ
は全然別のことだと思います。
さらに言えば、それぞれと「思考・判断・表現」の観点での評価は必ずしも関係しないと。
「確実に全員分の記録を残すのは学期末のパフォーマンステスト及びペーパーテストの機会」で、「極力全員の学習状況を記録に残すよう努める」のは単元末だけとしても(それもどうかと思いますが)、毎時間3つの観点で学習状況を把握するデザインになっているのは、評価する側もされる側もたまったもんじゃないなという感じですね。
「評価の総括の考え方」もずいぶん気持ちの悪いものです。
どの辺りがYANGさんに気持ち悪いと感じさせますか。
事例を見る限り、3つの観点に何の重みづけもないんですよ。
3つのレッスンとそれを踏まえたパフォーマンステストがあったとして、各レッスンとパフォーマンステストで、発揮が期待される「知識・技能」と「思考・判断・表現」の重みが違うだろうというのはここまでに指摘してきたことです。
参考資料には「だんだん向上が見られるから、時間的に後の方の評価を重視して総括評価を判断した」等々のad hocな記述はあるのですが、そう考えるなら、予め各レッスンとパフォーマンステストの評価が全体に占める割合をそのように(例えば、L1: 10%、L2: 20%、L3: 30%、PT: 40%と)しておけばいいわけです。
もちろん実際の授業とそのスペックが噛み合っていることが前提ですが。
あまりリジッドにせず、「追い風」の裁量の余地を残したというところでしょうか。
だとしたら意味のあるフィードバックに資するものにして欲しいですね。
今回の評価基準で最も不満なのは「技能」についてです。指導要領の記述の時点から気になっていたことですが。
先ほどの、例えば、
- 【事柄・話題】について、【言語材料】などを用いて、【内容】を即興で伝え合っている。
が基本的な形となるやつですか。
はい。
これって、トピックや内容は様々に入れ替わるけれども、どういう状態が、「話すこと[やり取り]」の「即興で伝え合う」という技能の発揮・向上を意味するのか全く不明ですよね。
ましてやその「正確さ」とはなんなのか。
「即興で伝える」にせよ「【内容】を整理する」にせよ「相手からの質問に答える」にせよ、言語技術として様々な段階がありますね。
そうなんです。
全て「思考・判断・表現」の適切さで吸収するつもりなのかもしれませんが、「即興で伝え合う」一つとっても、主張を繰り返したり、相手の理解を確認したり、談話標識を駆使して論点を整理したり対比を明確にしたりといったサブスキルは、一つひとつの活動の「適切さ」だけにとどまるものではありません。
提案されている評価規準ではそこが全く見えないままです。言語材料を明確にして、やってさえいれば、という印象を受ける。もっとも従来の評価基準でも全然見えてなかったことですが。
リーディングやリスニングについて、skimmingやscanningを言うようになった割には、というところですか。
ライティングでもトピック・センテンスやディスコース・マーカーなどは(特に高校の)教科書にも登場したりして、広く知られるようになってきたと思いますが。
「要点」や「概要」といった言葉に言い換えられているところもありますが、そういった概念が学習指導要領にも評価規準にも全く出てこないわけです。
今後、4技能5領域でサブスキルの不在が問題になっていくでしょう。Can-doを求められたら、学習者も教師もHow can we do that?と問わねばなりません。
山田 (2020)については下の記事も参照してみてください。