[雑感077] ポスト授業内外の世界
昨年のLET関西支部2019年度秋季研究大会公開シンポジウム「小・中・高の外国語科における『思考力・判断力・表現力』の育成」に登壇する機会をいただいて、「思考・判断・表現のための知識・技能、知識・技能のための思考・判断・表現: 高等学校における単元構成」と題して高校の実践紹介を担当した。
シンポジウムの最後に「小から中、中から高、高から大へとバトンリレー的なコメントをする」というコーディネーター・司会の今井先生の無茶ぶり素敵な提案があり、大学の実践紹介をする登壇者はいなかったので大学については自分で引き受けて、こんな話をした(一部は、英語授業を語る会・静岡#10で話した内容に基づいている)。
かつての状況についてであるが、高校と大学の接続や異同を考えるには、授業の頻度と間隔の違いを押さえる必要がある。それによって異なる学習のリズムが作られているからだ。週を単位として考えた場合、高校はいわば「週4〜5の世界線」であり、大学は基本的に「週1の世界線」である(集中講義や週2回開講している場合などについては今は措く)。テレビドラマが好きな人は、朝ドラと週1ドラマを対応させてみれば、毎回の構成や話の展開させ方の違いがよくわかるだろう(シンポでは「なつぞら」と「あなたの番です」で対比した。特に後者で誰か笑ってくれていれば幸い)。
授業と授業外の領域を分けて英語の授業に関わる部分だけを取り出せば、高校の1週間を下図のように表現することができる。予復習が授業間の橋渡しとしてうまく機能すれば、単元の学習効果はそれに応じて高まるであろうし、限られた時間で意欲的な単元を構想することも可能になる。
しかし現実には、授業外の全てを予復習が占めているわけもなく、まさにそれに影響を与える要因としては下図のように考えなければならない。
生徒たちは塾や部活などの忙しい合間に予復習の時間を捻出するのであり、先生が、授業と授業の間をつなごうと授業外の予復習を課そうとすれば、生徒にとって無理がなく、かつ塾の宿題や部活前後の青春をセーブして取り組ませるだけの必要性を感じてもらわなければならない。そこには他の教科の予復習との闘いも含まれている。「明日までに」、あるいは「月曜までに」授業外の学習活動を求められる高校には、間隔を置かずに学習が継続され得る良さがあり、一方でその間隔の短さによる制約や困難さもあるだろう。
大学も授業外の時間をめぐる闘いという点は同様であり、下図のように、よりシビアな闘いが待ち受けている。週1の世界線では、個々の授業が学生たちの生活に占める割合は高校と比べて小さいものとならざるを得ない。
上の図では、わかりやすいように戯画化しているが、現実の、少なくとも私が接する学生の多くは物理的にも精神的にも本当に忙しい。「ぶらぶらしつつ、映画を3本ハシゴしている内に今日は終わってしまった」とか、「中央ローンで日向ぼっこしながらダラダラ本を読んでいたが、歩いてきた先輩とキャッチボールすることになり、しばらくキャッチボールしながら駄弁った後、気付いたら朝まで飲んでいた」、「図書館で寝てた」みたいな日が彼らにあるのかどうか心許ない(あったとしても、われわれが学生の頃の何十倍もそのことに罪悪感を抱いていそうだ。それは幸せなことであるのに)。
もっと言えば、学生たちは授業内外で力を入れるべき(入れなければならない)授業と、入れなくてもなんとかなる(入れたくない)授業を素早く値踏みし、時間割をやりくりをしている。上図のように、直前の、授業の合間の時間に何かの課題に懸命に取り組んでいる様子を見かけることもある。あるいは「〇〇の授業中にやる」という宣言を耳にしたり。そうしたやりくりも大学で経験することの一部だと思うので(是非はともかく私自身が平成の内職王であった)、そのことについて私はどうとも思わない。授業をする側としては「オッス、オラ悟空。いっちょやってみっか!」と思うだけである。
90分の授業内で完結させ、授業外に踏み込まずに授業をデザインすることもできなくはないし、それが適した授業もあるだろうが、「来週までに」の世界線で単元的まとまり(の系列)を構想しようと思えば、高校以上に点と点の間の「授業外」の役割が重要になる。個人的には、半期・年間の授業を通じて「気づいたらその気になって時間が溶けていたし、いつの間にかなんだか見える景色が変わってらあ」となることを追い求めたい。
授業の90分を最大限活かすため、計画的に課題を配置すると上図のようになり、人によってはこれを「反転授業」と重ねるかもしれない(私にとってはピントのずれた、どうでもいい呼び名だ)。この報告の時点で私が伝えようとしたのはそれをさらに一歩進め、学んだことをどう振り返るかは本来、学生に任せるべきものであるにせよ、下図のように、学生がそれをもっと意味のある復習として取り組もうと思える、あるいは手応えを感じられるように、毎回の課題・授業が「単発」にならない工夫が必要だ、ということであった(担当する授業でやってみてますという事例を併せて用意していたものの、シンポジウムでそれを紹介する時間はなかったのだが)。
ここまでは実は前段である。この記事を今になって投稿しようと思った動機は、われわれが抱える今のこの状況だ。ここまで「今はもう状況が違うよ」と思いながら読んだ人は正しい。そう、世界はもう変わってしまったのだ。
これまで私は、上述のような考え方から、いかにして授業内外の境目を曖昧にし、学生たちの意識において、授業外に食い込むだけの魅力を有する授業を展開するかを考え実践してきた。そうしたら境目が消えてしまった。海の領域がなくなり、全てが空になってしまった(下は英語授業を語る会・静岡#10で最初に課題意識として提示したスライド)。
前段の図を更新して戯画的に示せば、学生たちの日常は一変し、バイトも激減したか、あるいは全く無くなってしまった(下図)。部活やサークルも公式には開催できない。集まる場所も営業していない。そういう日々を学生は過ごしている。学生に限らずだが、どうぶつの森に多くが集まっている状況は簡易的なマトリックスの世界の実装のようですらある。どうぶつの森で授業ができればいいのだが。
勤務先では4月30日から在宅受講を前提として授業が再開された。他の大学の状況は詳しくは知らないが、対面での授業をすぐに再開したり、再開の展望を具体的に持てている大学はまだないはずだ。少なくとも今学期はどこも、非対面の授業を様々に模索し、混乱しもがきながらあれこれの方法を試すのだろう。
大人たちはなんとか予定の学事暦を満たすことを考え、前の記事でも言及した通り「オンライン授業」の準備にあくせくしている。資格や進路のことを考えればそれはもちろん重要なことなのだが、それよりも私が考えるのは、授業内外の区別を実質的に喪った今、上の図にただ課題や授業を重ねた状況が学生たちにとってどういう意味を持つのかということである。あるいは「授業」の部分なしに単に複数の授業の課題が、今の学生たちの生活に放り込まれた時にどういうことが起こるのか。
別の観点からもっと根源的に言えば、生活の中での「授業」や「課題」とはなんなのかが問われているようにも思える。授業内外の区分が喪われた今、それを快復する取り組みがわれわれに求められているのか、それとも全く異なる学びのあり方への転換が迫られているのか。私はさしあたり前者の立場で、学生たちの生活の中に「授業」とそれを中心とする学習の時空間を快復すべきと考え、試行錯誤している(下図)。結果として、これまでとは全く異なる形にたどり着くのかもしれない。
いずれにしても問うべきは、計画した教育活動がなるべくその通り遂行できるかどうかではなく、学習の経験の総体、つまり学習者が何を経験し何を学ぶかという意味での「カリキュラム」がどういうものになるかである(カリキュラム研究者にとっては馴染みの区分だが、多くの人は前者のみを「カリキュラム」と捉えている)。
ここまで意図的に避けてきた「9月入学」の議論や教育実習期間の短縮措置にも同じことが言える。問題は、開始時期や制度上の障害などではない。いま、児童・生徒・学生からどういう経験が失われ、どういう環境でどういう時間の流れを過ごしていて、そこにどういう(両方の意味での)カリキュラムを提供することができるのか、すべきなのか、ということである。
「短く済ませる形で、実習をなんとか実施できそうでよかった」ではない。例えば、これまで3週目になんとかたどり着いていた研究授業に2週目でたどり着けるのか、実習生の気持ちは、子どもと実習生の関係性は追いつくのか。もちろん実習に送り出す側はそのためにできること・すべきことを今後考えていくのだが、計画した教育活動の遂行への固執は、やったフリの体裁を整えることが目的化しているという意味で、批判される「布マスク配布」とそう大して違いはないのではないか。