[雑感082] 「日常的に英語を必要としない環境」に対する疑義
英語教育界ではESL/EFL (English as a second language/a foreign language)の区別がよく知られ*1、拙稿
- 亘理 陽一 (2018).「英語という言語の特質: どのような英語を学び教えるのか?」酒井 英樹・廣森 友人・吉田 達弘(編)『「学ぶ」・「教える」の観点から考える 実践的英語科教育法』(pp. 4–22)大修館書店.
でもKachru (1994)の同心円モデルを紹介している。それを自ら揺さぶる話。あるいはESL/EFLの(主として国家を単位とする)地理的区分論から心理的区分論への転換。
上掲書をテキストに指定するようになってから、担当の授業でこの時期、日常生活の範囲で見つかる様々な英語を撮影してもらう課題を課している。第2章の内容も踏まえて、以下の3つを探す((C)は任意)。
- (A)日本語使用者[典型的には日本人]に向けて使われていると思われる英語
- (B)英語使用者に向けて使われていると思われる英語
- (C)それ以外の外国語
今年は外出や行動が思うままにならない中でどうなるかなと心配したが、近い範囲でも色々考えて収集してくれた。(A)には広告やロゴなどの「象徴的機能」が目立ち、(B)には生活に関わる道案内や商品の使用上の注意、成分表示などが目立つという具合に、かえって両者のコントラストが際立った気もする。
ともあれ、この課題を通じて履修者に感じてもらおうとしているのは、ちょっと探せば、われわれの日常にも英語や他の外国語が溢れているということである。端的に言えば、ESL/EFLという概念はある面では役に立たなくなっているし、続けていけばそれが加速していることも街角に見出されるかもしれない。
その変化は、国際線の発達や外国人とのコミュニケーション機会の増加(どちらも今現在はなんて空疎に響く表現だろう!)といった目に見えやすい「グローバリゼーション」の結果というより、外国語に対するわれわれ一人ひとりの意識の問題ではないか、というのが私の問いかけである。自分の身近に英語が存在して自分がそれに関わっていると実感していれば、「日本はEFL環境だから生活に英語は必要ない」とは思わないはずなのだ。現に、彼らが毎日見かける案内にも手にする商品の説明にも英語が溢れている。
われわれが現状に対して「日常的に英語を使う環境ではない」という場合、それは、「一方的に誰かが英語でする指示を聞かなければならなかったり、英語で意図を伝えないと思い通りに生活できないわけではない」ということを意味しているのだろう。しかし、家族や親しい人間に外国語話者がいれば、必ずしもそうは思わないはずだ(この課題を音声で収集してみると、また別の発見があるだろうなと思っている)。今の日本の言語環境が「日本語が理解できれば(、日常的に英語を使わずとも)生活に支障はない」というのはある程度事実だと言えるが、「東京アラート」の「アラート」が日本語と言えるかどうかは微妙なところで(英語と言えるかも同程度に、というかかなり微妙なところだが)、「インフォームド・コンセント」などの用語が果たして患者に理解される言葉となっているか、といったことは以前から指摘されてきたことだ。
私自身、同僚と毎日英語を話さないと仕事ができないといった環境ではないが、英語のメールを読んだり書いたりすることはあるし、海外ドラマや映画を見ない日はないし、英語の本や記事も読むので英語に触れない日はない。仮に英語教育について教える立場にいなかったとしても、趣味やプライベートの交流で英語は毎日なんらかの形で使うだろう。つまり、「日常的に英語を使う」と言っても、どういう形でどのぐらいというのは程度の問題で幅のある話で、日常的な英語や他の外国語の世界を拡げていこうと思うかどうかはわれわれ一人ひとり次第なのだ。「日常的に英語を使う環境ではない」というのは要するに、自分はそういう関わりや意識を英語に対して持っていないと表明しているのに等しい。日本のどこにいても、対面であれ非対面であれ、日本語での助けを必要とする人もいれば、英語での助けを必要としている人もいる。複言語主義の立場に立てば、どの言語もその話者にとって重要で、社会の中にその役割を見出すことができる。
だからと言って私は、「今後、日本で英語使用がもっと増えるだろう」とか、「英語についての意識改革を!」と言いたいわけではない。上掲書の第2章で示されているようなデータに基づく実態を無視して「ますますグローバル化する世の中で『国際共通語』として英語が重要に…」と煽り立てるだけの英語必要論が詭弁であるのと同様に、日本は「日常的に英語を使う環境ではない」ということを持ち出してその教育の何かを正当化する議論も適切ではないと考えている、という話である。どちらもそう思いたい人がそれを理由にするというだけの堂々巡りなのだ(昔は私も、ESL環境の議論をEFL環境の日本に持ち込むな!とかよく言っていたのだけれど)。
学校の授業について、「向かい合ってペアワークができない今の状況では、英語でのコミュニケーションは難しい」という声を聞く。しかし、そもそもそれは誰に向けたことばだったのだろうか。ちょっと探せば日常生活に英語はすぐ見つかる。しかしどうやらわれわれの多くはそれを「日常的に使っている」とは、あるいは自分に密接な関わりを持つものとしては捉えていない。では、今は奪われたそのペアでの「コミュニケーション」では、誰に向けて、何のために英語を発したり受け取ったりしていたのだろう。小中高で英語を教える者に求められるのは、ESL/EFLの概念を知って日本をEFL環境とみなすようになることではなく、このねじれに向き合うことである。日常に見出した英語が誰に向けたどういうメッセージであるかを考えながら。自分にとって、あるいはコミュニティにおける英語のあり方がどのようなもので、それが学習者の生活や学習に接点を持ち得るものであるかを考えながら。
*1 リンクでも貼ろうかと思ってググってみたら、逆に貼る気が失せたのでリンクは割愛した。