[レビュー041][ゼミ] 相馬『教育的思考のトレーニング』(その1)

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今年度前期のゼミは、基本的にはZoomで実施し、

を講読している。各章に対する私の総括的レビューを、3章ぐらいずつ、毎週お届けする。

私のゼミでは毎回、報告者以外に、記録者がゼミ通信を発行している。初回から代わる代わるバトンをつなぎ、現在265号。ゼミ合宿などのイベントの後にも特別号を発行しているので通常のゼミだけではないが、265回はゼミとして何かをやってきたということだ。私が1号も書いていないというのが良い。

この記事を書いている時点では非対面形式もすっかり定着し、これまでのように冒頭でゼミ通信につい自由に感想をやり取りし、文献の内容についての議論も盛り上がってつい長時間に及んでいるのだが、4月当初は「ゼミの時間が長くなり過ぎないように」ということをまず考えていた。

さりとて、せっかく発行してくれたゼミ通信にコメントしたいし、5月から講読がスタートした上記文献についても、ゼミ中の議論だけでは言及しておくべきことが残るかもしれない。ということで、ゼミ通信を卒業生や知り合いとFacebookで共有する際に、報告者・記録者を経たコメントがてら、「私の視点ではここを切り取り、こう価値づける」という各章のまとめを投稿してきた。

以下はそれを転載したもの。

プロローグ

「親身」の新味。新味の「親身」。

本書で相馬は、「教育的思考」として、

(1)傍観者や観察者ではなく当事者・責任者としての視点、

(2)他者に価値的変化をもたらそうとする視点、

(3)他者との関わりのなかで自己も変化していくという視点

を強調する。教育者の「お節介」が成立するのはどういう根拠と条件によってなのか、そしてそれは単なるお節介と違うと言えるのか、言えるとすればどういう意味でなのかを深めていこう。その際、教育的態度が多くの場合、情緒的・情熱的であることから、一歩下がった知性的な検討を重視している(がもちろん随所に情熱が漏れ出ている)ことも本書の良いところ。

第1章 傍観者から降りる: 関係のなかへ

相馬は、教育にとっての価値相対主義の問題や「傍観者の過剰」などを指摘しつつ、当事者性が求められる教育的態度はさらに、臨床的態度「だけ」でも不十分であり、規範性が不可避に伴うことを論じる。ゼミでの議論は、この規範を個人だけでなく教職員集団で共有することが求められるか、求められるとすればどういう場合かということに焦点が当てられた。

「児童・生徒たちの間・中に不公平感を生まないようにする」ことが規範の共有・統一を正当化する理由の一つとして挙げられたが、ゼミ後に、一方にあるその弊害についても問いかけてみた。それは、教育・学校が「公平ではない可能性があるからやらない」という発想になりがちだ、という側面である。

例えば、今の状況で「遠隔配信授業をやろう」と誰かが提案すると「家にWi-Fiがない子もいるから公平じゃない」となったり、あるクラスにゲストが来て授業をしてくれることになったとか、あるクラスだけ特別なイベントに参加できることになった際に「他のクラスの子がかわいそうだ。公平じゃない」となってそのイベントを断念する、というようなことだ。

本来は、遠隔配信授業が必要だ、教育上意義があると教員たちで合意が形成されたなら、「それを実現するためにはなにをしなければならないか」と考えて行動すれば(つまり、現状の不公平を是正するために動けば)いいのに、現状に不公平の状況があるから止めよう、となってしまう。もちろんその不公平を無視したり放置したりして、あるいは改善の見込みがないのに新しいことを強行するのは愚の骨頂である(Cf. 外部試験の大学入試導入)。しかし「公平じゃない」は、保守的な立場の人たちが現状を変えない理由にもされがちだ。表面的な「公平」という旗には、惰性に流れることを正当化してしまいやすい側面があることにも目を向けたい。

第2章 やれば分かる?: 理論と実践

相馬は本章で、ロックやヘルバルト、デューイらの名前を挙げつつ知性主義と経験主義の点検を試みる。偏りすぎるとどちらにもデメリットがある。反知性主義の平等性やメリットにも触れる一方で、谷川徹三(谷川俊太郎さんのお父さん)の「学問は満足しようとしない。しかし経験は満足しようとする。これが経験の危険である」という言葉を紹介し、経験主義の危うさの指摘を忘れない。

本書をゼミで読むことを提案しようと思ったのはこの章に出会ったことが大きい(なぜ教育実習や留学は経験としてインパクトが大きいのか、なぜ卒業・修了研究に取り組むのか、等々)。教育の諸問題を両者の立場を行き来して思考できるようになること、そして頭でっかちにならず小さいことからでもとにかく実行に移してみること(PDCAのPに囚われて動けない愚を避けること)。主体的に学習に取り組む態度の評価問題も自分ごととして。それこそ主体的に引き取ってみんなで考えてみた。

もう一つ、この間の様々な経験と重ね合わせて感じてもらいたかったのは、「思考は言語によって規制される。だから、言語は思考の現れだというだけではない。使っている言語に問題があれば、思考はもちろん行動にまで影響を与える。ゆえに、ちょっとした言い回しだからといって簡単に無視できない」ということ(p. 55)。私が「(児童・生徒・学生に)…させる」という言い方を嫌い、極力避けるのもそういうことなのだ。思い起こせば、大津先生の著作に刺激を受けて「メタ言語意識を高めて、自他の言語使用にsensitiveになれるような言語教育を」と目標を掲げたのは学部生の時だった。20年経ってそこを見つめ直す自分を発見したりもする。自分の中での温故知新。

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