[レビュー047] 井上論文・新藤論文

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後輩が活躍めざましい。以前、日本教育史学会の査読の話を聞いて、そりゃかなり厳しいシステムだなあ!と驚いたのだが、その機関紙『日本の教育史学』第63号に後輩が2人も論文を載せている。

  • 井上 滉人 (2020).「アントニオ・デ・ネブリハ『子供の教育について』の修辞法: 初期近代スペインにおける教育原説の一様式」『日本の教育史学』63, 88–99.
  • 新藤 康太 (2020).「婦人の改良と衛生: 渡邊鼎の束髪奨励論に着目して」『日本の教育史学』63, 19–32.

お世辞抜きでどちらも楽しんで拝読した。素直に勉強になった。

井上 (2020)は、初期近代西洋における教育言説の端緒の手がかりとして、16世紀のスペインの人文主義者ネブリハの著作を取り上げ、構成と主題選択の典拠、そして教育を語る修辞法を明らかにすることを試みている。『羅西辞典』『西羅辞典』を行き来しつつ、educare, disciplina, instituereといった語句の用いられ方の微妙な差異に着目する若き俊英の、地道で時間のかかるテクスト分析作業に敬意を抱かずにいられない。

本論において、ネブリハの当該文献の主たる典拠がプルタルコス、アリストテレス、クインティリアヌスの著作にあることが明らかにされる。その際、その他にも様々なギリシア語・ラテン語作品のエピソードや旧約聖書の章句が引用されていることにさらっと触れられているのだが、著者が明示していたのでない限り、存在を知らなければそもそもそのことには気づかないわけで、その確認も含め、本論のために途方もない作業が費やされていることが窺える。

その広範な典拠の全てを百科辞書的にいちいち説明しているわけにはいかないであろうが、ネブリハにイヴァン・イリイチが言及していたことさえ知らなかった不勉強のセンパイには、例えば主たる典拠である擬プルタルコス『子供の教育について』についてもう少し詳しい解説が欲しかったところだ。「擬って?」と調べ始めてそれはそれで勉強になって面白かったのではあるが、ネブリハの著作の系譜における半ば所与の存在として、擬プルタルコスの同作の記述は、それに影響を受けた作品群の概観から始まる。ネブリハの典拠としての重要性に鑑みれば、それ自体の定位にもっとスペースが割かれていてもよかったように思う(さらに言えば、和訳タイトルはネブリハの著作もプルタルコスの著作も同じになるが、英文概要のほうで気づくDe liberis educandis libellusDe liberis educandisの違いも気になったり)。

中心的な主張に関わる感想をひとつ述べておく。研究課題的に、あるいは教育史のアプローチとしてなのか、本論は『子供の教育について』の本文の内容のよしあしに対する価値判断はしていない。しかし、タイトルのeducandisが「教えること」への用法拡張の余地を持つものである一方、「本文においては、依然としてinstituereやdisciplinaが頻出するのであって、『教授する』『教える』という文脈ではeducareは用いられていない」こと、そして「それが用いられるのは身体への配慮を中心に扱った養育の営みに結びつく場面」であることを指摘する時、ネブリハのこの著作の内容・主張に対する評価との関わりで、そのことがどういう意味を持つのかというのはやはり気になってしまう(pp. 94–95)。つまり、内容的には前近代的なものであったが故にそうなのか、内容的にも既にその後の近代教育言説の「萌芽」が垣間見えるのだが、本文の表現は、主たる典拠の影響が大きく、そこから逸脱するものではなかったということなのか、といったことである。今後の研究を楽しみにしたい。

新藤 (2020)は、明治20年代の学校衛生の制度的確立や、家庭教育論における衛生重視(「家庭衛生」・「家事衛生」)の風潮以前の、明治10年代の束髪奨励論に着目する。この時期にはコレラをはじめとする急性伝染病への危機感があり、一方、教育史や服飾史の先行研究では、女性の束髪という事象が、欧化政策との関連で論じられてきた経緯やそれに対する批判などがあり、どちらも130年以上の前の古い話には思えず、読み進めるほど極めて今日的な意義を持ったトピックに映る。

課題の設定に至るまでの整理も見事であるし、ほとんど知らない分野の未知の話題でありながら、推理小説の謎解きのように面白く読んでしまう。束髪がなぜ奨励されたのかというミステリーの始まりが、「衛生に配慮した衣食住の改良を重視する、人種改良論や『虚弱』の克服をめざす身体の教育論が、女性を視野に入れてその役割を論じるようになるという変化が存在していた」(p. 28)という記述にたどり着くと言われれば、途中に何がどうしてそうなるのか?!とこの記事の読者も気になることだろう。それを憶測で語っているのではなく史料に語らしめているところに、そのための膨大な史料の収集と読み込みが窺え、再び後輩に脱帽してしまう(細かい疑問点などは以前研究会で概要を直接聞くことができた際に伝えたので、ここではこの程度の紹介にとどめる)。

1885年の渡邊鼎による束髪奨励の理由のこじつけのくだりで、最近の教育政策のいくつかに同型のものをいくつも思い浮かべることができた2020年。直接会うことはなかなかかなわないが、こうして刺激をもらい続けられるだけでも有り難いことだ。ますますの活躍を。

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