[レビュー048][ゼミ]『現代学校と人格発達』(その1)
ゼミ生と話し合って、前期は窪島務『現代学校と人格発達: 教育の危機か、教育学の危機か』(地歴社)を講読することにした。ゼミでの議論の補足としての私的まとめ。初回は序章を検討した。
『現代学校と人格発達』は四半世紀前の1996年に刊行されている。その序章において窪島は、7、80年代の学校を取り巻く社会背景や、教育学内部の議論、子どもの状況を分析した先行研究に触れながら、「知育(概念的思考能力の獲得)と人格問題と発達論を軸にして構造化する問題」に「地道にとりくむことがもとめられている」(p. 29)と説く。
70年代以降の「学力論の展開のなかで、『学力を回復する』という課題、『子どもの発達段階にそくして』という課題意識からの人格へのアプローチは全体としてみると希薄化しているように思われる。それは、学力を回復(形成)することと人格発達との関係が、じゅうぶん解明されないまま、反復訓練を中心とする直線的、短絡的な学力回復のとりくみが実践的な課題とされてしまったことにも関係があるだろう」(p. 29)。1人1台端末に何を期待しているのかよく分からない、GIGAスクール構想真っ只中の現在にもよく当てはまる指摘である。圧倒的に「いま」(も)読まれるべき文献なのだ。「伝統的授業へのとらえなおしもさかんにおこなわれ、認知理論を背景にする認知心理学からの『学び』についての言及もめだつようになった。そこでは、これまで授業の日常において見落とされていたことへの着目などが新鮮におこなわれたりした。しかし、『学び』論は、学校論においては近代学校批判と同調しつつも、そのいっぽうで教師のやりかた次第で、すなわち教育方法の『転換』によって、学校のなかに教師と子どもとの共同体をつくることができるかのような、自然主義的、童心主義的主張になっている面がある」(p. 36)。この指摘も最近のことで思い当たる節がある者や耳が痛い人がいるだろう。慧眼畏れ入る。
上のような調子であるから、窪島は当然、「脱学校論」的な教育社会学的批判にも、臨教審や財界によって主導された公教育の自由化による市場化論(窪島の言い方を借りれば、企業の労務管理・労働者管理のシステムが広がったことの帰結としての「企業社会化学校」という状況)にも与しない。学校の「スリム化」論に対して、「学校の何が『肥大化』し、なにがやせほそっているといっているのかを問う必要がある」と言う(p. 40)。この辺の議論についても、最近の「#教師のバトン」を容易に想起することができよう。窪島は、つめこみ学級の是正について「公費を増額せよという要求」、父母・子どもの要求に対して「個人の人権保障の観点からの個別的選択権の拡大」、そして教育の公共性を保障する条件として「教育委員会の公選制の復活」がむしろ重要だと論じる。「この面での学校は、学校肥大化どころか、重篤な学校ヤセ症にかかっているというべきだろう。すなわち、『スリム化』とは逆に、むしろ発達保障の観点からの教育の公共性の拡大・拡充が求められているのである。子ども、父母のめざす学校のスリム化とはなにか、学校はなにを充実しなければならないか、についての合意づくりを積極的に運動化することが必要である」(p. 45)。その後の25年間は、これに続く段落で示された懸念通りに進んできたと言える。
窪島を彼女らと講読することにした最大の理由は、「学校の困難は、学校の内部における努力だけで解決するものではない。この観点を強調することは、その展望は困難ではあるけれども、いまとりわけ重要である。どうじに、学校の努力はその成果が大局的な変化にただちにむすびつかないものであっても貴重なものと考える」という、窪島の、学校と教育実践に対する洞察にある(pp. 37–38)。序章の最後で「教育にかかわる人びとと一緒に考えてみたい」こととして挙げられている、以下の4点は、いずれ教職に就く2021年のゼミ生にとってこの上なくアクチュアルで(というより全ての教員が知りたいことで)、教員養成課程にいる間に一緒に考える時間を提供することは私の責務であるようにすら思える。(1)教育のほんらい的機能である発達的見とおしにたった継続的指導とはどうあるべきか、その根拠は何か、(2)学校と教師の常識が、子どもの道理、親の道理といかなる接点を結ぶことができるかということ、(3)いかにしたら多忙化と長時間労働による過労と職業病を防止する抜本的な方策に着手することができるか、(4)(現場の条件・実態をふまえて)たんなる批判にとどまることなく、対置すべき可能で最善の教育を構想・編制する力量を身につけるにはどうしたらよいのか(pp. 47−49)。
窪島が上で述べたことを「教育学がなすべきしごと」として言い換えれば、「これまで見てきたような社会的規模でのダイナミックで強大な動きにくらべると、いっけんほのかで消えうせてしまいそうにちいさい抵抗と主体の確立へのさまざまな契機の、つけたしでない必然性を解明」(p. 46)し、「社会的統制の論理を前提としてふくみながらなお価値的立場を主張」(p. 47)していくこと、となるわけだが、その具体的な中身については私自身も改めて読んでゼミ生との議論を通じて考えていきたい。読みやすい文章ではないが、とにかくすごい本だと思う。学生の頃の私には何も分かっていなかったことがよくわかる。ゼミに感謝。