[本059] 橋本『物理学者のすごい思考法』
- 橋下 幸士 (2021).『物理学者のすごい思考法』集英社インターナショナル.
私の周囲に物理学者はいないが、この本に書かれているのはほぼ私のことじゃないか!という知り合いがSNS上に10人以上いる。部分的には私自身もそうだという自覚がある(「経路積分と徒歩通勤」の話とか)。そんな感じで、全編に渡ってめたんこ面白いエッセイ。
本書でユーモアたっぷりに披露されている「思考法」とは、われわれの業界に振ってきた言葉で言えば、「各教科等における見方・考え方」の自然科学におけるそれだ。
物理学会にて、友人と僕との会話。
友人『この会場行きのバス、何人乗っとんねん、もうギューギューで死ぬで』
(中略)
例えば冒頭の友人の発言においては、「死ぬで」の部分は医学部に任せ、「ギューギュー」という表現は文学部に任せてしまう。理学部向けに抽出された問題は「バス一台に人間を詰め込んだ場合、何人入るか。有効数字1桁で答えよ」となる(pp. 77, 79)。
この発言を外国語(英語)科で引き取った場合、
- 「この会場行きのバス、何人乗っとんねん、もうギューギューで死ぬで」(あるいはもう少しシンプルに「ギューギュー」)を英語で言うとしたらどうなるか
- 会場行きのバスの混雑について、英語話者であるこの聞き手に愚痴を言いたい(、早く出発すべしと伝えたい、息苦しいから窓を開けて欲しい等の)時にどうするか
という2つの問題を取り出すことができる。
1.も、日英語の表現の構造・意味について興味深い異同を知ることはでき、関西方言での適切な間や抑揚と英語での発音のリズムに習熟しようとする過程で、音声について気づくことも多々あろう。だが、1.のみを「外国語(英語)科の見方・考え方」とみなしてはならぬというのが、「英語を用いて何ができるようになるか」を標榜する当世の要求だ。それで1.を「コミュニカティブ」にしようと、目的・場面・状況をまぶすことに汲々として、かえって活動や授業全体を殺している場合が少なくないのが今の英語教育の問題の一つ(「オーセンティックの沼」ないしは「コンテクスト殺傷事件」)。
一方、「英語を用いて何ができるようになるか」に目を向けていたとしても、現状の「コミュニカティブ」な英語の授業の視野に2.のような言語行動が入っていることは期待できそうにない。しかし、英語話者の聞き手に愚痴って共感を得ることだって立派にコミュニカティブな「パフォーマンス」だ。むしろ2.の次元におけるそういう雑談的機能の希薄さが、いまの外国語(英語)教育を、用が済んだら帰れよ的な、殺伐とした味気のないものにし続けているとさえ言える。そしていつの日か旅行や留学の際、あるいは街中で話しかけられた折に、「日常会話」のおそろしさ・てごわさを身に沁みて感じることになるのだ。
「この会場行きのバス、何人乗っとんねん、もうギューギューで死ぬで」を例にした本書の「問題の抽出」の話を読んだ際に私の頭に浮かんだのは、この「外国語科における見方・考え方」が抱えるねじれの話を授業でする際に使えるかもしれないということだった。ちょうど関西の某大学での非常勤の集中講義が今週末から始まる。関西方言の例でご機嫌伺いもできるのではないか。
いや、待てよ、と思い直す。本書を経由すると話がわかりにくくなるから、こんな会話がありましてと私が直に語るとして、名古屋在住の道産子のエセ関西弁が関西の学生たちに許されるはずもない。冷ややかな目線と空気にギューギュー圧迫されて授業を殺すことになりかねない。やめておこう。君子危うきに近寄らず、も立派な思考・判断・表現なのだ。「この会場行きのバス、何人乗っとんねん、もうギューギューで死ぬで」の音声を関西方言話者に確認するところから始めねば。
といった調子の、この紹介よりうんとおもしろい、物理学的思考エッセイ集。