[レビュー055] 中村(編)『大学入試がわかる本』/伊藤(編)『変動する大学入試』
これから先、入試について何事かを語る「有識者」には、本書の通読を必須の前提条件としたい。
- 中村 高康(編) (2020).『大学入試がわかる本: 改革を議論するための基礎知識』岩波書店.
実際、長くそういう位置を獲得するだろう。本書が一般の読者を多く得れば得るほど、本書の内容を一切踏まえない「専門家の意見」については「ああ単なる感想だな、放っておこう」と判断できるからだ。
序章で述べられているように、どの章も「大学入試がわかる」ための明確な意図を持って配置されているが、何よりまず荒井(高大接続改革の現在)の以下の指摘を共有したい。
大学入試の共通試験には過剰と思えるほどの衆目が集まる。ところが実際に対象集団を数え上げてみるとさほどの大きさを占めるわけではない。前述したとおり、入試の多様化によって大学へ入学してくる学生の数は推薦入試、AO入試ルートによって半数を占められている。センター試験の頃も受験者50万人のうち、過年度卒者が10万人、成績未利用者(受験のみ)が10万人いた。残りの30万人がセンター試験の成績を利用して大学へ出願する現役受験者たちである。このうち5教科受験者は20万人、3教科以下が10万人である。高校卒業見込者を仮に110万人とすれば、5教科受験者の数は5分の1にも足りない。高校教育改革を考えるなら、もっと広い網掛けの可能な施策を講じなければならない。それは何も試験である必要はない。それにしても、基礎学力テストを切り捨てたことは高校教育改革に対する行政の責任放棄に近い。重大な失策であろう(pp. 266–267)。
木村(入試の多様化の経緯と現状)が2019年度までの10年間のデータをもとに述べているように、政策や制度の意図通りの結果はもたらされておらず、「複雑な『入試の多様化』をシステムとして理解」すれば、「受験生にとって受験したいというインセンティブにつながる入試期日、入試科目に大学側が調整し、高校側がそれを利用して合格者数を確保するという両者の思惑を抜きにした入試改革論議を行ったところで、高等教育が大衆化し、かつ、18歳人口が減少する時代には、功を奏さない徒労に終わる可能性があるといえる」(p. 60)のだ。この2箇所だけでも、「『入試にスピーキングテストを入れる→生徒のスピーキング能力が伸びる』というような単純な図式」(羽藤, p. 112)の論理の脆弱さを窺い知ることができよう。
その前段として、腰越(共通テストの歴史と現状)が整理する歴史的変遷も興味深く読んだ。大多和(eポートフォリオの入試利用をめぐる功罪)で指摘されるeポートフォリオの「学校が好ましいと考える方向に生徒を強く枠づけ」る行動統制の側面、つまり「設定された教育的な物語にはめられながら、しかも自主的な活動であるかのように自分を提示しなければならないという薄気味悪い側面があるということ」(pp. 142–143)を、(高校では来年度から全面実施となる)現行学習指導要領下での「主体的に学習に取り組む態度」の評価を巡る問題と重ねて首肯しながら読む時、腰越章で紹介される「エドミストンの3原則」や、戦後すぐに実施された進学適性検査の展開が、学力検査以外の評価・測定方法について示唆をくれる。
東京大学高大接続研究開発センター主催シンポジウムなどを通じて少なからずこの問題に関わっていた私であるから、本書は刊行後にすぐ自身で購入していたのだが、
- 山村 滋・濱中 淳子・立脇 洋介(2019).『大学入試改革は高校生の学習行動を変えるか: 首都圏10校パネル調査による実証分析』ミネルヴァ書房.
をここで紹介したことで山村氏に改めてご恵投いただいた。山村(大学入試は学習誘因となるか)は、氏の言葉をそのまま借りると、山村・濱中・立脇 (2019)の「第1次のパネル調査の成果をもとに、第2次パネル調査および全国横断調査のデータを用いて第1次の知見を確かめたもの」である。以下のまとめに加えて、「改革論議で学習時間の減少が問題視された進学中堅校生徒は、大学受験を強く意識するような高校生活を送っていない」(p. 227)をデータによって指摘しており、上の荒井・木村らの章とともに今後、大学入試について語る上で必読中の必読章である。4つの入試方法に関する調査結果のまとめを箇条書きで引用すると、
- 一般入試は、時間軸が高校後半期までに伸びてはじめて、ふだん(平日)とテスト期間中の学習時間にプラスの影響を与える
- 指定校推薦は、ふだん(平日)の学習時間の学習誘因となるとは言えず、テスト期間中のみ効果がみられる
- 公募推薦は、テスト期間中の学習を、指定校推薦ほど促す要因になるとはいえない
- AO入試は、ふだん(平日)の学習から遠のかせるものとなっている場合が認められる
となる(pp. 226–227)。考察は直接、山村章を読まれたい。
最後に、「高校1年次の学習時間が高校生活後半の学習時間の長さを左右する」(p. 228)という結果から、山村・濱中・立脇 (2019)と同様に、山村が「学習の『場』」の重要性を最後に述べているのが興味深い。「自主的、あるいは学校から設定される学習の『場』に、学習時間を伸ばす効果が確認でき」、「場面(時期、ふだん/テスト期間中)こそさまざまですが、勉強に意欲的な友人の存在に、学習時間を伸ばす効果が認められ」るからである。「ただし、学習の『場』を共有していてもそこでの学習に集中しなければ効果がない、という点に注意する必要があ」る(p. 228)。現状のオンライン授業の展開を考える上でも示唆は少なくないと言えるだろう。
本書の序章(中村, これからの入試改革論議に必要なこと)に「私たちの社会が抱え込んでいる選抜の構造を十分踏まえて改革を構想しなければならないのに、いたずらに文脈の違う事例や外国のケースを参照して、現状の大学入試制度の遅れや歪みを指摘するような言説について」、「欧米の選抜システムを参照するケース」が「典型的に多い」という指摘がある(p. xii)。そこで本書と同時期に刊行された
- 伊藤 実歩子(編) (2020).『変動する大学入試: 資格か選抜か ヨーロッパと日本』大修館書店.
の存在を思い出して手に取った。こういうイントロで紹介すると悪く言うために取り上げるようだが、全くそんなことはなく、非常にインフォーマティブな良書であった。京都大学教育方法学研究室出身者の著者中心に編まれた一冊。最近刊行された、
- クレイグ・クライデル(編)(西岡 加名恵ほか(訳))(2021).『カリキュラム研究事典』ミネルヴァ書房.
も含め、私のような野良研究者は、京大教育方法の著作に触れると「ファミリービジネスやめたらいいのに」という思いと「それぞれ軸がしっかりあって、堅実に研究を積み重ねる立派な人たちだなあ」という思いがいつも交錯する。
本書に中村の指摘が当たらないのは、第8章のイギリスの事例を除けば、どの章も日本と比べた記述をほとんど全くせず、各国の制度と近年の動向を淡々と描写しているからだ。内容の解説は渡辺貴裕さんの紹介を読んでもらうと良いが、よほど強い関心や明確な目的がない限り、イタリアのマトゥリタ試験やスウェーデンの大学入試制度について調べる機会はなかなかないだろう。たしかに中村も名前を挙げているアビトゥーアやバカロレアなどは耳にする機会が増えて、ちょっとググってみたということがあるかもしれない。あるいは教育学界隈では注目されることの多いオランダについても同様だ。しかし、それも含めて、多くの人が知っている海外の教育事情・制度は日本で言えば「小学校3年生から英語教育が始まる」程度の粒の粗さであったり、その情報も古いものであったりすることが少なくない。本書の著者は、各国の教育を長年研究し、現役で追いかけ続けている人たちであるので、各国の事情が十分に咀嚼されてまとめられていると同時に、新しく知ることの多い記述を提供してくれている。
もちろん各著者の切り取りの視点に「比較」が含まれていないわけではなく、あとがきに示唆がまとめられてはいるものの、基本的には各章を読む中で、書名にある資格と選抜のありようを読者があれこれと思い描くことができるものとなっている。それだけに、また上掲の『大学入試がわかる本』と比較しても、第9章の「揺れる日本の大学入試改革: その実態と挑戦」は整理や分析が弱いと言わざるを得ない。知り合いとしては、木村さんもふつうにオーストラリアのことを書けばよかったのにと思ってしまう。イギリスについても、ちょうど本書が出版直前に下記のような話題が出ていただけに、刊行がもう半年ズレていれば、二宮さんの書き振りや追記内容も変わったのではないだろうか。惜しい。
伊藤(編) (2020)はそれとして十分に役割を果たしているが、もっと言えば『大学入試がわかる本』が執筆時に著者らの手元にあればよかったと言える。両者をつなぐ役割が読者に任されているとしても、より深く大学入試をわかって考えるために伊藤(編) (2020)も一読を勧めたい(こちらは必須とまでは言わないけども)。