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[レビュー058] 浅野『教育DXで「未来の教室」をつくろう』

[レビュー058] 浅野『教育DXで「未来の教室」をつくろう』

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流行に踊る日本の教育』の対談で(対談収録時にはまだ実践例が報告されていなかった)「未来の教室」に言及したこともあり、

を読んだ。

石川晋さんのブログでも言及されている通り、多くの学校を訪問し、実践を見、たくさんの教育関係者と会って話を聞いたことはわかる。「未来の教室」云々以前からよく知られる(ものの、教育学者の多くが実際に足を運んでいるかといえばそうでもない)学校から、いかにも「先鋭的な事例」として輝いて見えそうなところまで、足で稼いだ上で書かれたものであることは事実だ。霞ヶ関に関係者を呼びつけて、こぎれいに整えられた報告を聞いて、空理空論で教育論・学校論を打っているわけではない。既存の学校制度や学校文化の気持ち悪い部分に対しても的を得た指摘が少なくない。その意味で、ワンマン官僚の剛腕報告という(のが失礼ながら読む前に勝手に持っていた印象だったが、という)より、観察した実践の「冴えた」部分や工藤勇一さんらの言葉を取り込んだ広告代理店的キュレーション(に長けた人)というのが全体的感想だ。

とはいえ、そのキュレーションにおける学習観・教科観の貧困さというか、こちら側(『流行に踊る日本の教育』著者陣)との根本的なズレは否めない。例えば浅野(2021)曰く、

教科書を一通り理解する意味での「教科学習」はスポーツでいえば「筋トレや基礎練習」に当たります。単調でつまらないものですが、しかし、自分の課題に対応した個人メニューをきちんとこなさないとスポーツ選手として成長が止まるように、教科学習は学術の「足腰をつくる」意味を持ちます。一方で「探究学習」は「対外試合・部内マッチ」みたいなもので、ここで高いパフォーマンスを見せることこそが『学びの目的』です(p. 46。下線は引用者)。

少なくとも私と継続的に関わっている人で、教科学習を「単調でつまらないもの」と捉え、必要悪と認めて教科書を作ったり授業をしたりしている者はいない。「自分の課題に対応した個人メニューをきちんとこなさないとスポーツ選手として成長が止まる」とわかったように書いてはいるが、成長を止めなかったアスリートが「基礎練習」を果たして上のように捉えているだろうか。「学術の『足腰をつくる』」ことに各教科の知識が貢献したと感じている人は、受けてきた授業が概ね「単調でつまらないもの」だったということはあっても、教科学習そのものが「単調でつまらないもの」だとは考えないように思われる。授業の改善を必要としていることと、教科(が内包している知識や文化)そのものが退屈なものであることは全く位相の違う話である。

さらに浅野(2021)は、「ぜひ『筋トレや基礎練習』に当たる『教科学習』と、『対外試合・部内マッチ』に当たる『探究学習』を両立させたいのですが『時間は有限』です。『行ったり戻ったり』して深い探究を進めるには、各教科で最低限身につけてほしい基礎知識は『効率よく吸収する』ことが必要です」(p. 47)と続ける。つまり、彼にとって「『ホンモノの課題』に向き合う」ために活かされるツールという位置づけの「英語・国語・数学・理科・社会」は、時間をかけるようなものではなく、手っ取り早く、手間をかけずに学ぶべきものなのだ。そう割り切れる人が東京大学のようなところに入りやすく、エリート官僚になりやすいのかもしれない。しかし、世界は「答えがあるもの」と「答えがないもの」に整然と分けることなどできないし、それが渾然一体となった外国語と向き合うことにできるだけ時間と手間をかけた授業をデザインしたいと思っている私とは相入れようがない。英語については、広尾学園の事例紹介のくだりで「世界レベルの先行研究を理解するにも、海外の研究者に自分の研究を相談しようにも英語が必要だから、という『正しい動機』から生徒たちは英語の勉強も頑張ります」(pp. 34−35)という記述がある。もちろん英語を用いる動機の一つとして悪いことではないし、エリート寄りのナイーブな英語教育論の典型とも言えるだろうが、これを「正しい動機」として掲げて学校英語教育を推進してよいかを真剣に論じ始めたら、英語教育界隈の中でも揉めるし、それだけで別に長大な論文が必要になってしまう。

と、それなりにコメントをしたが、教育方法学的観点でより詳しいレビューは渡辺貴裕さんの記事などに譲るとして、ここでは全く別の観点で、浅野(2021)の、あるいは「未来の教室」をはじめとする、彼らの「教育DX」について気になることを指摘しておきたい。

上記の問題点を措けば、本書の中心的な提案は「学校は、世間にあふれる多様な居場所・EdTech教材・指導者・支援者・時間の使い方を一定のルールで『いいとこ取り』で組み合わせ、生徒が自分なりの学び方を見つけ、各自の学習目標を各自に適したスケジュールで達成するのを助ける」(p. 84)という方向性にあると言える*1。要するに教育の市場化の全面的な肯定であり、教員の専門職文化の解体を伴う規制緩和の推進であるが、どうやら著者らは「ヤル気次第で学習環境の地域間格差・所得格差の影響を最小限にできる」と本気で信じているらしい(p. 83)。

しかし、(1)「ガラケーの構造」として批判されている「いまの学校教育の構造」(p. 69)との対比で、「いいとこ取り」が「学習環境の地域間格差・所得格差の影響」を縮める、あるいはその方が現存する格差の影響を受けないという理論的・実証的根拠が本書には示されていない。「ヤル気次第」である時点で制度設計としては杜撰の類と言わざるを得ない。不良品ばかりの、求められてもいない布マスクを無理矢理配ったり倉庫に眠らせたりした施策とそう変わらないことが繰り返されるだろう。

(1)はエンピリカルな問題でもあるのでぜひ(成功事例を並べてバンザイ、ワッショイではなく)因果効果の検証を行ってもらいたいものだが、(2)本書には「いいとこ取り」の供給や保守、質・量の担保にかかる費用を誰が負担するかという議論が十分にない*2仮に誰しもが目覚ましい成果を得られる学習環境があったとしても、受益者に相応の負担が求められ、地域・所得の格差ゆえにそれが利用できないのであれば意味はない。現状は(浅野(2021)が意図する程度のドリル学習であれば)無料のコンテンツがそれなりに豊富にあるとしても、今後、教育がますますビジネス・チャンスとして捉えられた場合に、そうならない保証はあるだろうか?(タブレット端末の時点で既にそうなっているように)各家庭や自治体の負担が最終的に増すことを明示せずに「いいとこ取り」を謳うのは、「全員健康になりますよ(お金さえ積めば)」と語る手口とたいして変わらない*3。

一方、経産省の「未来の教室」実証事業に採択されたものについて公費で賄うというやり方は、公教育に満足な予算を当てようとしない体制を打開する策とは言え、浅野(2021)の書きぶりにおいても、自分たちに認められたものだけが「いいとこ取り」の権利を有すると言わんばかりで、権力の介入が強すぎる。しかも「未来の教室」実証事業公募要領を見ると、ボストンコンサルティンググループが当該事業のマネジメントを受託しており、「経済産業省と協議の上、評価・選定を行う」とある。要するに当該事業そのものが教育の市場化推進を体現しているわけだ。

各家庭の負担であれ公費の負担であれ、ラバリー(2018)(Cf. 神代, 2020)による教育の目標の類型で言えば、市場化した教育はどうしても「社会移動」と「社会的効率」で値踏みされることになる。つまり、受益者が負担を肯定するのは、自分(の子弟)がより高い社会的地位や待遇を得られる場合だろうし、公費の負担は経済発展、つまり、それが生産性の高い労働者を育てることや国を引っ張るエリートの輩出を通じて経済効率を高める場合に正当化されるだろう。そうすると「民主的平等」は後景に退いてしまう。少なくとも「いいとこ取り」の質や効率を市場が追い求めた結果、それが犠牲にされるリスクは高いと言わざるを得ない。

しかし、私が接する限りにおいて、今の学校教育を支えている先生方や管理職の多くは、社会移動や社会的効率を目標において公教育を担っているわけではない(民主的平等!と意識しているわけではないとしても)。浅野(2021)は上記の提案によって「学校は『自前主義・純血主義・形式主義』を捨て、役立つものはEdTechでも外部協力者でも何でも使い倒す。つまり『他人のいい褌でいい相撲を堂々ととる』文化に変わる」(pp. 84−85)と展望するが、先生は相撲をしているつもりなどなくて、子どもたちが土俵の外に放り出されしまわないよう、他になり手のいないキャッチャー・イン・ザ・ライに奔走しているのかもしれないのである。現状がそうなっているのは果たして教員の意識や旧態依然たる体制だけの問題なのだろうか。(3)本書はそうしたマクロ、メゾ、ミクロの各レベルでの、「教育DX」の(推進することが妥当だとして、解決すべき)課題の分析をほとんど全く欠いている。となれば、これまでの鳴り物入りの取り組みが繰り返してきた通り、「教育DX」なるものは、現状を無視した無理のゴリ押しか成果の過剰な美化を不可避に招くことになりかねない。生まれ変わる前に死や腐敗が待っていなければいいのだが。

*1 「学習指導要領が求める資質・能力を『各自それなりに』」とか、「個別学習計画」と「学習ログ」といったグロテスクな提案も惜しみなく開陳されているが、大学入試改革の議論等で明らかな通り、浅野(2021)に限ったことではない(臨教審以降の大きな流れな)のでここでは取り上げなかった。

*2 ただし、終章での既存の教材費・学用品費の妥当性に対する指摘や、法令・制度の見直しに踏み込んだ言及をしている点は注目に値するし、著者の立場を考えれば評価されて然るべきだろう。

*3 正直、優秀な官僚を自負するなら、まずは各学校(・各家庭)に安定した強固なネットワーク網を整備してから「GIGAスクール構想」を云々してよと言いたい。各家庭にお風呂を設置します!みんながお風呂に全身浸かるのです(ドヤアとイキってはいるが、そもそもろくにお湯が来ていない状態があちこちにあるのだから。

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