[雑感100][本079] 日本語教育のパラダイムシフトから見た英語教育(青木ほか(編)『教育学年報12: 国家』)
- 青木 栄一・丸山 英樹・下司 晶・濱中 淳子・仁平 典宏・石井 英真 (編) (2021).『教育学年報12: 国家』世織書房.
に収録された論考はどれも重要で、近々、苫野さんが『学問としての教育学』という本を出すらしいので、教育学関係者はその前に、あるいはそれと併せて、本書の編者と苫野さんの対談(「教育研究と現場のあいだに『相互承認』は成り立つか」)をぜひとも読むべきであるが、ここでは、
- 南浦 涼介・中川 祐治・三代 純平・石井 英真 (2021).「民主化のエージェントとしての日本語教育: 国家公認化の中で『国家と日本語』の結びつきを解きほぐせるか」(pp. 283–304)
から考えたことを少しばかり。
南浦・中川・三代・石井 (2021)は、2010年代後半に起きた日本語教育の「パラダイムシフト」を次の3つにまとめている。(1) 「日本語教育の目的の力点が『日本語』から『教育』へ」、(2)「日本社会の外国人受け入れの理念が『対応』から『共生』へ」、(3)「そうしたことを念頭に置いたときに、その教育の担い手である教師を『私』から『公』に向かわせていく」動き(p. 289)。
論文全体としては、日本語教育の国家政策上の動向や、日本の国家と日本語との関係に日本語教育がどう対峙してきたかを整理した上で、シティズンシップや社会正義の議論をもとに今後の日本語教育が担い得る貢献を論じているのだが、上記の整理を外国語としての英語教育に引きつけて考えてみるといくつか興味深い論点が浮かび上がる。
(1)に関わって、「『どんな場面で何ができるか』という課題遂行の力」(p. 286)が強調されるようになったのは、現行(高校は新)学習指導要領の外国語(英語)科も同様である。ただ、それを「英語」から「教育」へと言えるかというと疑問符がつく。まず「『教育』へ」とすることへの違和感がある。依然として(特に中高の)教室レベルでは「言語知識の量」(p. 289)が「計測される水準」の多くを占めがちという実態もあるが、仮に「課題遂行の力」という目的の力点がカリキュラムに十分反映されたとしても、「知識としての英語」から「スキルとしての英語」へとまとめるほうがまだ英語教育関係者の納得を得やすいと思われる。
それと同時に、英語圏文学や言語学・英語学関係者辺りから、(明治まで遡るならともかく、少なくともここ数十年の英語教育について)「『英語』から」と言えるほど目的の力点が英語にあっただろうかと苦言を呈されそうだ。その意味では、「知識中心の教育」から「スキル中心の教育」へと言わなければならない。さらに私の観点では、第二言語習得研究の影響などで、「教育」と言えるようなまともな教授がどのくらいあったかしらねと思う実態も少なくないから、最終的には「英語に関する知識の学習」から「英語のスキルの学習」へと表されることになるだろう。かといって「英語に関する知識」がどのくらいまともに扱われていたかと言うと…(以下略)。
日本語教育のように「『教育』へ」とならない理由の一つに、「その先にある社会への参加のありようを含み込んだ視点」(p. 289)が余儀なくされない、ということがあるだろう。少なくとも現状としては。それ故、(2)の「パラダイムシフト」は外国語としての英語教育にはほとんど見当たらない。「対応」があったとすればそれは、「外国人の日本社会への円滑な参入」(p. 289)のためではなくて、観光客やオリンピック等々を想定した活動や、留学、イングリッシュ・キャンプなどを通じたイベントとしての体験の羅列である(亘理, 2021)。
(3)についても、外部試験の資格やスコアが求められるようになったことを考えれば、外国語としての英語の場合はむしろ、「公」から「私」に向かっていると言えるかもしれない。ただし、小学校英語の専科・担任の議論などにも現れているように、「教師の質と量の担保」が重要視されているのは外国語としての英語教育も同様であり、その評価尺度の「私」の性格が強まることはあっても、「公」が完全に手放されることはないだろう。
南浦・中川・三代・石井 (2021)に、日本の学校教育の一環としての外国語としての英語教育の話は出てこないが、上記の異同について考察を進めることは日本語教育を論じる上でも意味があるのではないかと思う。さらに私は、過去に提示してきた目的論から、本論で提示されている「社会とのつながりを持つ日本語教育を実践する際」の3つの視点(p. 297)が外国語としての英語教育にとっても重要だと考える者の一人である。それが英語教育において「パラダイムシフト」にまで至るかどうかと言えば全く心許ないのではあるが。