教育
[雑感101] 講演「第4次産業革命と教育の未来」雑感

[雑感101] 講演「第4次産業革命と教育の未来」雑感

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過日行われた日本教育学会北海道地区・北海道教育学会共催の講演会「第4次産業革命と教育の未来―ポストコロナ時代のICT教育―」の感想。

講演者の同名の岩波ブックレットの話で、数字はざっくりなので割引いて聞くとして、何度も繰り返された(日本の取り組みや改革は)「20年遅れてる」って20年前も聞いたなあと思って苦笑しながら伝統芸能の味わいを感じた。

どうがんばっても「遅れた」ままで、矮小化・破綻に向かうのを観察しているだけなのだとしたら、そこで追い求める(と教育学者が謳う)「公(教育)」ってなんなんだろうな、という質問は時間内にまとまる気がしなくて控えたのだが、20年がループし続けているのだとすれば、警鐘を鳴らす役割がどの程度「稲むらの火」足り得ているかを考えざるを得ない。

あるいは追いついたり追い越したりしてどうなんだ、と。要因の記述として世界規模で進行する市場(化)の動向と実態をつかんでおく必要はあるとはいえ、そのことと、日本という個別の国・自治体の教育行財政が、構造的に行き詰まっているという問題もちろん連動しているにしても、「公教育どうにかしなきゃ」と同列で論じてていいのかという問題がある。

所管省の「ひもじさ」として「行き詰まっている」というのは私の評価だが、GIGAスクール構想にしろ外部試験にしろ、教育産業から提供されるコンテンツにしろ、機会の不平等や貧困化のリスクを増大させても、「受益者」負担で選択を増やそうとする方向のほうがジリ貧の今よりマシ、という立場の「DX」的主張や施策に対して、いま「公教育」(の編み直し)というのはどういう説得力を持ち得ていて、持ち得(てい)ないのか、という話は、質問への回答も含めてなかったと思う。

そもそも、進行中の方向で、どの程度、機会の不平等(や階層の固定化、格差の拡大)や、教授・学習の貧困化のリスクが起きるかが十分示され、知らされているか、ということがある。全国一律ではないし、これは記述的研究として、起こってからしか示せない部分もある。

次に、それが示されたとして、対抗する「公(教育)」や「学びの保障」にどう合意を形成するのかということがある。それが出揃って選択を求められた時、果たして編み直した「公(教育)」のほうが選ばれるのか、という問題。編み直し自体を運動論的に引き取るべきなのか。結局は、無限の対立と相互浸透の過程と考えるべきか。

少なくとも、しょうもないドリル学習やスケジュールを間に合わせるための「保障」の実態などの状況を見れば、休校するかしないかだけが問題とは言えないよなあ(世界中で休校によってそういう影響が出ているというデータで話してるんだろうけど)。鳥の目と虫の目の解像度に対する違和感というか。

てなことを、講演を聞きながら考えた。

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