[雑感104]「測りすぎ」の前の「測れる」という前提の危うさ
ある先生から、大阪市教育委員会が4月から始める「若手教員の授業を数値で評価する事業」について質問を受けた。
私は単純にこれは愚策だと思うが、その説明を通じて標題のことを考えたい。
この取り組みが愚策だと私が思う理由は、
- A. 評価の尺度が粗く、評価者間で一貫する保証がないこと
- B. 児童生徒にも評価させること
- C. 学力調査をもとに効果が測られること
である。
Aは「元校長」の指導観と評価能力次第ということになるが、当然、妥当性が疑問となる。この事業に協力するのは市の施策に好意的であるか、人脈上、断れない元校長であることが予想される。結局、若手教員がなりたい教師像を自ら形成して力量を高めていくよりも、旧態依然たる指導観を押し付けて従わせるだけになりやすく(もちろん優れた教育監のような人がいてくれればそれに越したことはないが)、元校長間での評価の一貫性にも不安がある。そうなると若手の間でも、「あの人に当たればいいけど、この人に当たると理不尽な評価をされる」という不満が生まれやすい。
そもそも若手教員は、「元校長」に授業を見てほしいと思っているだろうか?来た日だけ学芸会的に張り切るか、そもそもやる気を失って降りてしまうか。どちらにしても意味は薄そうだし、元校長に気に入られることばかりに必死の若手教員なんて、同情もするが、やっぱりちょっと気持ち悪い。そうでなければ、ありがたい「講話」という名の説教をいただいて、後で同僚や友人に愚痴るだけのことだろう(元校長が仮想敵となって「なにくそ」の対象となるのは、それなりに効果があるかもしれないが)。皮肉を言えば、いわば「主体的に学習に取り組む態度」の逆を地で行っているわけである。そういうやり方で評価された先生が、子どもたちにどういう主体性を求めるというのか。
Bは、ピグマリオン効果よろしく(むしろ上と同様ホーソン効果と言うべきだろうか?)、本人もそれと意識しないうちに児童・生徒に気に入られようとしてしまうリスクがある。また、児童・生徒がその項目の判断能力があり、正直に答えるということを前提としているが、果たしてそう考えて問題はないかどうか。幼ければ幼いほど(大人でもそうだが)人物としての好き嫌いと授業の良し悪しの判断が分離できないと予想されるから、好きな先生であれば好意的に評価するし、嫌いな先生であれば否定的に評価するだろう。要するに、悪条件でうまく関係を作れていない先生ほど不利になる。タチの悪い場合、集団で先生をハズしにかかることだってあるぐらいだから、それが自分の評価に使われるとなれば、先生は子どもたちのご機嫌取りをしてしまうわけである。
授業改善のために児童・生徒の声を拾うことは無意味ではもちろんないが、教育はサービス業ではなく、子どもたちはカスタマーではない。先生が子どものご機嫌取りをしても授業は良くならないし、学力があがるわけでもない。サービス業だって、個々の従業員を名指しで客に評価させるなんて滅多にやらないはずである。「1年間過ごして、この学校はどうですか?」といった学校全体に対する評価ならまだ分からなくもないが、若手教員に責任を負わせるのは酷というものだ(子どもに嫌われようと自分の教育観を貫く、という意志の強い若手がどのくらいいるだろうか)。
Cは、結局、先生がたを学力調査の対策に走らせることになる。そして事業の責任者としてはその順位さえあがれば(少なくとも外向けには)良いのかもしれない。結果として他の問題は問われなくなってしまうが、テスト対策に走ることが若手教員の力量形成につながっているとは到底思えない。元校長が良心的であればあるほど、Cの結果を追うことはAの評価と矛盾する可能性さえある。そうすると若手教員はただストレスを覚え、やる気をなくしていくだけだろう。
政令指定都市はもともと多様な人が住むところだから、社会的・経済的格差が学校に影響しやすく、教育条件が複雑になりがちである。学力調査で政令指定都市の結果が振るわないのは、先生方の指導力の問題というより、他の地域に比べた家庭環境の多様さがダイレクトに反映する(のに対応した学校環境の整備や教員配置に成功していない)から、である。その根本原因に蓋をして、上記のような問題ある方法で若手教員を追い立てるのが「愚策オブ愚策」と私が言う理由である。
数値目標での教員評価の動きは、基本的には学校外からのプレッシャーによってもたらされている。本来は各地域、各学校で保護者も巻き込んで懇切丁寧に説明をし、場合によっては言い合いになることも覚悟で、その学校にどういう子どもたちがいて、どういう大人になってほしいかを話し合って、それに向けてできることを協議していくべきであるが、結局みんな忙しくて貧しい。よほどの文教地区の理解ある保護者でもなければ、わが子に学校が提供してくれるものの要求は強まる一方で、わかりにくいことに耐える忍耐力や複雑な情報を処理することを保護者に期待することはできない。結局、昔も今も、学力調査の結果や成績、そして入試に合格できるかどうかがわかりやすい。そうすると管理職や行政もそれを指標とせざるを得ない。大阪ほどどぎつくなくても、全国的にも同様の傾向は続くだろう。そういう色がついた教育長が選ばれれば、なおさらである。半世紀前なら教員組合が機能して闘えたかもしれないが、ここを社会の問題に転換できない限り働き方改革も何もない、と個人的には思う。
そういう事情はあるが、教員の内側の世界でみて私が理解に苦しむのは、もとから勤評はやっているのだからそれで十分ではないか、ということである。大阪市の取り組みは自己評価も入っているようだから、それに結びつけたものなのかもしれない。しかし、校長がきちんと仕事をしていれば、指導力も含めて、各教員の評価はできているはずで、わざわざ追加で何かをしなくても、その報告で十分だろう。実態として勤評がお手盛りになっていたり、校長の評価があてにならないということが少なくないのだろうか。
数値で測ることそのものが悪いわけではない。しかし教員の「指導力」などという捉えにくい概念を、いくつかの項目の4段階で把握するなど不可能だろう。教職の長いキャリアを考えれば、元校長が勝手につける2と3、3と4の間にあるはずの葛藤やその先生の個性にこそ、教師の一生にとって大事なものがあるのではないだろうか。仮に何らかの尺度を設けるとしても、上から押し付けるのではなく、例えば若手(あるいはさまざまなキャリア段階の)教員が集まって目指す教師像について意見を交わし、それぞれの現在地を把握して目指す教師像に向かって自らを鍛えていくような仕組みにならなければ意味がない。
個人のレベルでいっても、自分で目標を設定してPDCAを回してくださいと上から言われるのはやらされにしかならないので、その先生が憧れとする(ことができるような、つまり恥ずかしいところは見せられない)人に見てもらって目標を設定し、その人からフィードバックが得られるというような仕組みが必要だろう。逆に、大阪市のような仕組みで育った先生は、子どもたちにも同じような価値観で接するかもしれない。それが授業にとって、そしてその先生のキャリアにとって良いこととは全く思えない。
「指導力はどう把握したらいいのか」ではなく、「どうすればその様子が他者に観察・理解可能な形で、先生方が指導力を高めたいと思えるか」というふうに考えて制度設計しないと、結局、研修もやらされるもの、評価は偉い人から下されるものという意識はいつまでもなくならないだろう。再び皮肉を交えて言えば、そんなんじゃ新しい学習指導要領が求める学力観で指導するのは到底無理である。「指導力はどう把握したらいいのか」は問題を見つけて対応するといういわばマイナスの(経営管理的)発想だが、指導力を高めるのは授業のため、子どもたちのためであって教育行政のためではない。今いる先生がたにどうしたらプラスを増やしていけるかという視点に立って、現状にどういう先生がいようとそれが限られたスタッフなのだから、全員に100を足せれば損をする児童・生徒はいないと思うのだが。
という話でよければいつでもしに行くから呼んでください、とその先生にはメールをした。
研究目線で言えば、この施策の導入以前と導入後で大阪の先生方の分布や若手対象の研修内容等々にとり立てて変化がないのであれば、不連続回帰が適用できると思うので、この事業の因果効果を明らかにする調査としっかりやった方がいいと思う(若手教員に対する負の影響がある場合、それを明確に示すことができる)が、そういう発想がエビデンス云々を標榜する実施側にあるのかどうか。