[雑感108][本094] 鈴木『私たちはどう学んでいるのか』
過日、日本教育方法学会の第25回研究集会「データ駆動型社会に向き合う授業研究(1)ー授業をどう捉えるかー」に参加した。
報告を聞いても、「教育データ」が授業や教師・学習者の何かを駆動するのか、教師・学習者が「教育データ」を駆動するのか曖昧だったので(このテーマを追究していく中で「データ駆動(型)」の意味も探究されていくという趣旨なのだろうけど)、「従属変数」(y)と捉えて話をしているのか「独立変数」(x)と捉えて話をしているのか気になるとチャットに投稿したら、司会の石井さんから突然指名を受けて慌てた。
「授業の『課題発見』と『改善』に関する実践的・省察的研究」のための独立変数だと捉える場合、つまり「授業の『課題発見』と『改善』」が従属変数で、報告されたような多様な構造化・非構造化データを「教育データ」として独立変数に投入する場合、白水先生の話を聞いているとメタファーとしては重回帰分析のようなことをやっているのだなという印象。可視化したり教師の判断のリソースをリッチにしたりすることで、柴田先生の言葉を借りれば「やっぱりそうだ」、あるいは「自身にフィットしないものへの違和感」の精度を高めるための分析ということになる。そうした「教師の判断を補強する」という時、過剰適合(overfitting)を招くの危険性はないのかというのが、このメタファーと私のコメントの意図の一つ。
他方、過剰適合ということで言えば、「データ駆動型社会」以前から、教師の経験と勘による判断でもそれは少なからず起きていたと考えられる。「子どもの目の輝き」はその経験と勘に対する揶揄混じりの批判の代名詞となっているが、授業中の学習者のあらわれやテスト等のパフォーマンスから教師が自身の授業にフィードバックを得て改善を施そうとするという、これまで繰り返されてきた営みは既にある意味での「データ駆動型」授業改善であった。その教師の判断が功を奏する場合もあれば、自己正当化を強めるだけという場合もあっただろう。そして、後者に陥ることを防ぐためにも、その判断を個人に閉じず複眼的にすることが有効だからこそ、授業研究という形で、同じ授業を複数の教員で見合ったり意見を交わしたりすることが有効だと考えられ長く実践されてきた(その意味で、授業内外で得られるデータがxでもありyでもあるというのは当然のことである)。
授業が学習者にとって実質的に少しでも良いものになるのであれば(柴田先生の言葉をもう一つ借りれば「おや」と感じてダブルループが起きるのであれば)、教員個人・集団が自分たちの授業から得るフィードバックの出所は何だって構わないはずだ。「データ駆動型社会」の「教育データの利活用」とは、従来のそれを単純に強化するという話なのか、それとも質的に異なるものと変えてしまうという話なのかが昨日の報告や議論で説得的に示されたわけではない。それぞれの報告で示されている「教育データの利活用」の仕方が、従来の教師の判断に何を付け加えるのか、あるいは何を引き去るのかを十分吟味する必要があるだろう。草原先生が指摘したデータの単位や、異なる学習者を対象とした授業のデータを並列して互いに参照できるようにすることの意味が問われることになるし、何度か引き合いに出された「血圧」や「レントゲン」に当たる(判断の基礎をなす生理学的・解剖学的な)知識を教育学や授業研究が果たして持ち得ているのかということも問題になる。
研究会と結びつけた前置きが長くなったが、こうしたことを考える上で、
- 鈴木 宏昭 (2022).『私たちはどう学んでいるのか: 創発から見る認知の変化』筑摩書房.
は非常に示唆に富むので、全員に一読をお薦めしたい。
従属変数独・独立変数という概念を用いた私のコメントの意図のもう一つは、鈴木の言う学習者の「認知的変化」をその「教育データ」で捉えられるということがどう正当化されるのか、という問題だ。今のデータの集め方や使い方に大いに問題があることは事実だとしても、「データ駆動型社会」はデータでそれが捉えられる、あるいは授業にかかわる教師の判断の質を向上させることができるということを前提にしている。果たして本当にそうか。もう一つ鈴木の言葉を借りれば、「過剰適合」によって学習者の「無意識的なメカニズム」が無視され、教師や学校にとって都合の良い論理が拡大再生産されることにならないか。
こういう議論は「利活用」の最先端を紹介して、それをどううまく取り入れていくかという視点で話が進みがちだが、鈴木がポランニーを引いて論じている「近接項」ばかりを見ていることにならないか、よくよく注意したほうがいいと思う次第である。