[雑感117] 池澤『世界文学を読みほどく』から
毎度アクロバティックな思考だが、『TITANE チタン』を観て、若い頃だったら興奮してハマったかもなあと思いながら、でもちょっと違うなと感じていたモヤモヤが、
- 池澤 夏樹 (2017).『世界文学を読みほどく: スタンダールからピンチョンまで【増補新版】』新潮社.
のフォークナーの章を読んでいくらか解消された。本書で取り上げられている作家の中でも、トーマス・マンと並んでウィリアム・フォークナーとは特に縁のない人生を送ってきた。マンはクイズ番組ならまだ『魔の山』を答えられるが、フォークナーに至っては、ヘミングウェイやフィッツジェラルドと違い代表的作品と言われても浮かばない。私にとってそういう存在。
『アブロサム、アブロサム!』の解説を読んで思ったのは、小説にしろ映画にしろ表面的なストーリーや描写以上のことを味わうためには何らかの参照枠が必要だということ。なるほど、これまでに観た『それでも夜は明ける』や『ラビング 愛という名前のふたり』、あるいは『ブラック・クランズマン』などの様々なシーンが思い返された。
そういう形で私に「参照枠」が無かったわけではない。しかし、私は圧倒的にアメリカの歴史や社会に関心を持ってこなかったし、「南部」の問題に疎い故にフォークナーと出会う機会を逸してきたわけだ(どちらかと言えばイギリスの労働者階級の問題におそらく自らを重ねてきたので、映画で言えばケン・ローチの作品を好んできた。文学もイギリス寄りに読んできたかもしれない)。
翻って『TITANE チタン』。「若い頃だったら興奮してハマったかも」と思ったのは、ませたレンタルビデオ少年の頃でもヴィンチェンゾ・ナタリ監督の『CUBE』などを興奮して受容していたからだが、モヤモヤの意味は違う。
ギレルモ・デル・トロ監督の『シェイプ・オブ・ウォーター』のような作品は好みではないので、本作も好きか嫌いかで言われると好きではない。ただ、単なるエログロ作品では決してなく、ジェンダーや差別や暴力の問題が幾重にも埋め込まれているし、生と死が隣り合わせというか鏡の裏表のように、錯乱したエロスとタナトスの中にドギツく描かれている。そういうことが問われている作品のように思った。
こういう言葉で整理できるのは、今の私に、池澤を読むまでフォークナーに対して自覚的には持っていなかった、(平たく知識と経験と言い換えてもいいが)それなりの「参照枠」があるからで、若い頃であればショッキングな映像とストーリーとして味わうことはできたかもしれないが、込められた意味は汲み取れないままだっただろう。
モヤモヤの一部に、そういう意味はそれなりに汲み取れるようになったが、さりとて良い鑑賞だったかと言えばそうでもないということがある。よく分からずスポンジのように刺激を受け取っていた若い頃のほうが純粋に「凄え」と惹き込まれたのではないかという気がしないでもない。戸田山先生が『教養の書』で、『ダイ・ハード3』のような娯楽大作でも聖書にまつわるあれこれが重ねられていて、しかもそれに気づかなかったとしても楽しめるように作ってあると書いていたのを思い出す。
しかしポストモダンやポストポストモダンの地平がここまで来てしまうと、文学にしろ映画にしろ厚みに気が遠くもなる。というのは全くの老婆心で、全然違う感覚で世界と接しているであろうZ世代の中にはヒョイっと受容して先へ進める人も普通にいるのかな。