[雑感126] 「やり取り」の指導に関する英語教師の言語使用観
某県の研修で「話すこと[やり取り]」の指導と評価の話をした際、事前に寄せられた質問に「目的・場面・状況を設定しようとすると、ALTや留学生と会話するという設定になり、ロールプレイのような形ばかりになってしまうがいいのか?」というものがあった。
活動に英語でのやり取りの必然性を与えようとすれば、対話相手としてALTが選ばれやすかったり、自分や相手が留学生だったらという設定を思いつきやすいことは理解できるし、それ自体が悪いということもないが、それにこだわらなくても様々なインタラクションの活動は構想できる、という回答をした。そうした「オーセンティシティ」にこだわらずとも、ディスカッションで合意を形成するにしたって、ディベートで議論の優劣を決するのだって、ALTや留学といった想定なしでも英語で展開できる。conversationやtransactionsの範囲でも、児童・生徒が英語でやってみようと思う言語行為は十分あるだろう。
この話は今年いずれかの学会で奥住先生がしたのではなかったかと思うが、印象的だったのは、上記のように応答した際に「それが聞けてホッとした」という感想をもらったことだ。互いの実践を共有した際に「毎回『ALTの先生に伝えてみましょう』というのもどうかなと思う」という先生の声も聞こえた。硬直的な「本物らしさ」が、目的・場面・状況の「原理」としていずれかの方向から押し付けられている実態が推察された。それも含め話すことの指導は(あったとしても)英語教師個々人の経験と勘に頼る部分が多く、理論的・実践的な共通認識はまだまだ乏しいというのが私の課題意識で、今回の研修でこのテーマを設定した理由だ。
他方、「(英語の)授業なんだから」、そうした本物らしさの考慮は不要で、教師とであれ生徒同士であれ英語使用を阻むものは何もない、という主張は、まあそうなんだけど、言語活動ではなく(「関係代名詞を使った文を3つ言いましょう」といった)学習活動を「パフォーマンス」と強弁するような方向を助長しかねないところもあるので塩梅が難しい。つまり問題の核心は、そしてそれは特に話すことの指導において顕著になることが多いと私は思うのだが、教師の側が「言語使用」(または言語機能)をどう分析的かつ体系的に捉えているかということで、評価規準/基準にそれと直接関係のないような指標が入り込む問題の根っこもそこにあると考えている。
ただ、Celce-Murcia (2008)のモデルでInteractional competenceの説明をしたが、その中身について以前よりも受け止めはスムーズだったように思う。今日の先生方がたまたまそうだっただけかもしれないが、指導の実感が蓄積されて、「そうそう、それそれ」という感覚が増しているとすれば有難いことだ。終了後に英語母語話者の先生から質問があり、”holding/relinquishing the floor”について、実際の指導場面と結びつけたり日英語の違いを絡めたりした説明をしたら、「なるほど、確かに!」とすごく腑に落ちたようで興味深かった。このやり取りをそのまま授業に持ち込めれば面白いのにな。