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[雑感133] 見えにくいところにある心の動き

[雑感133] 見えにくいところにある心の動き

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今日は、静岡大学教育学部附属浜松小中学校へ。3年生の社会科。学習のくくり「市の移り変わり」で、O先生は、かつては浜松でも盛んだったという養蚕業を取り上げた。

指導案を一読してまず、養蚕という選択の挑戦性に感心した。私自身は、小3時点はもちろん、大学生ぐらいになってもそれほど理解してはいなかったことだが、「シルクロード」に遡り、人類が絹やおカイコ様に突き動かされ、文化を彩り悲喜交々を生み出してきた歴史的・社会的事実を知れば知るほど、人間の営みが凝縮されていて面白い題材だ、と思う。衣服が当たり前にあって養蚕も大半にとって日常のものではない今となっては、麻や木綿とも異なり動物を間に挟むということの「奇妙さ」もそこに味を添えるとは言え(その面倒さを乗り越えてでも手に入れたい魅力が絹にあるということだから)、社会科ないしは総合の教材としての魅力は、蚕から絹が作り出されるプロセスそのものよりは、それを巡る社会・経済のほうにある。3年生はそういう視点をどこまで深められるだろうか。

本時までに子どもたちは、遠州鉄道奥山線の跡を散策して観光ボランティアの話を聞いたり、蚕の飼育体験をしたりして、養蚕の歴史も学んできている。その振り返りを踏まえて「今の、浜松市の養蚕農家は0戸」に対する児童の反応は絵に描いたようで、うまく説得すれば20人ぐらいは養蚕業に手を出しかねない思い入れの状況。本時までの展開は効きすぎなぐらいに効いている。当然、0でいい〜0はダメで意見を問えば「0はダメ」が大勢を占めた。それぞれの意見を書き出し、各自のポジションを前に貼って示し、それぞれの意見を全体で共有した後で再度意見を問うも(O先生が事前に想定した意見はだいたい出たものの)、大きく意見を変えた児童はいなかった。

それはなぜかと言えば、各自の思い入れを覆すほどの具体的事実や資料が子どもたちの議論の俎上にのぼっていないからだ。「伝統(を維持すること)が大事」という意見も「化学繊維があれば十分」という意見も、文脈を抜きにすればそれとして間違ってはいない。この時点での子どもたちには、自分にとっての、他者にとっての、社会にとっての、さらには蚕にとってのという視点までが未分化なまま混在している。さらにその「社会」も、浜松ならではを思う(ためには他の地域のことも知っている必要があるはずだが、必ずしもそうではない形で地元愛を惜しまない)児童もいれば、他の地域でもと思う児童もいれば、そうした地域の隔てを持たない児童もいるという具合で、接点を見出すのはそれほど容易ではない。

だからこそ、子どもたちの間では出てこないような論点や対立点を浮かび上がらせるような、あるいは資料に根拠を求めたくなる受け返しが本時にはもっと求められたように思う(「でも十分な量の絹を作るのにどのくらい蚕やクワの葉が要るんだろう?」、「でも肌が弱くて化学繊維がダメっていう人もいるよね?」等々)。事前におウチのシルク製品調査をやっても子どもたちはあれこれ発見したかもしれない。

私が注目して観察していたのは、3者で意見が割れたグループと、4人とも真ん中寄りの判断をしていて対立点がなさそうなグループ。前者では、化学繊維より着心地が良いことと「地物の絹糸でできた着物のほうが安心感がある」ことを主張するSさんと、「(養蚕は必ずしも)浜松市じゃなくてもいいんじゃないか」と訴えるKさんが、北海道や東京といった地名を出して「ちょうどいい場所ってどこなんだろうね」と話していた。このやり取りが全体に共有されることはなかったのだが、仮にそこを掘り下げれば、養蚕に適した気候条件という観点から(現在の)浜松の適否を評価する議論へと向かった可能性はある(今も気候として悪くないとなれば、ではなぜ…と考えられる)。その契機は授業中にもあって、「化学繊維があれば、絹がなくても生活には困らない」という主張のもう1人のSさんが、前時までに得た情報として全国に養蚕農家が165戸であることを報告したのだ。これが正確な情報であるかどうかはともかく、ここで「47都道府県で単純に割れば静岡県にも3、4戸はあってもよさそうだけど、なぜ0戸なのか」と水を向ければ、現在の浜松に養蚕農家が残っていないことにはそれなりの理由があるのかもしれないと考えるキッカケになり得ただろう。そして、じゃあ165戸はどこにどう分布しているのか、ということも知りたくなってくるはずだ。

とは言え、全然2人の意見を受け入れる様子が無いように見えたもう1人のSさんは、最終的に真ん中よりに判断を変えた。4人とも真ん中よりのグループでも、3人は「0はダメ」に少しずつ意見を強めた(元の意見を強化した)が、1人は真ん中よりに戻した。グループで意見を交わすのはまだそんなにうまくなく、まずは先生に意見を聞いて欲しいという気持ちの強い3年生でも、クラスに共有された他者の意見を聞いて受けた影響を判断や記述に反映させている。その際、自分の元の信念を強化した者よりは、それが日和ったのであれ譲歩したのであれ、「そんなにハッキリどっちとは言えないかあ」と真ん中に判断を修正した児童たちにこそ、見えにくいけれども、次時以降、解きほぐすべき認識の錯綜や掘り起こすべき心の動きがあるように思う。そういう題材に挑んだO先生には(あいにくの雨模様ではあったが)天晴れを送りたい。

この単元の学びは後々にどこかで活かされるだろうし、この単元においても養鰻業者やイチゴ農家の話を聞くことで、「蚕かわいい」だけでは済まないことに気づき、社会認識を深める足がかりを得ていくはず。その報告を聞くのも楽しみだし、何より私は、毎度全員総出で見送ってくださることに恐縮しながら(思わず「これって天国につながってないですよね?」と聞いてしまう)、「藤本さんがいたらもっとシルクのキメ細かさでいろんなことを語ってくれただろうなあ」と、麻縄のごときわがコメントの粗さを反省するのであった。よく見たら私のスーツにも使われていましたわ、シルク。

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