[雑感137] 「モデル」を示すかどうかのその前に
以前に、
という記事で書いた話の続編というか、数年経って(も変わらず)響くこだまのような記事。
先日担当した某研修で、スピーキングの言語活動のアレンジについてグループに分かれて議論をしてもらった際、全体共有において色々アイデアが出た上で、「ここでパフォーマンスのモデルを教師から示すべきか判断に迷う」という声があった。なぜこの(グループの)先生(がた)が迷われたかと言えば、提示した「モデル」に生徒が引っ張られ過ぎて、単にそれをなぞるだけの、暗唱のようなパフォーマンスになってしまうことは望まないからである。モデル無しには求められるパフォーマンスのイメージが乏しく、生徒は取り組みにくいことが予想される一方で、モデルを示すことが活動の自由度を損なってしまうのもよくない、というわけだ。
モデル提示の是非についての直接的な応答としては、評価の観点と照らし合わせて、その言語活動でどういうパフォーマンスが求められているかが生徒たちに明確になるようなモデルを示したい(ただし、暗唱的なパフォーマンスが評価されるような観点であれば暗唱が助長される)ということになる。ただ私には、この先生の投げかけには、話すことの指導に関するより大きな課題が含まれているように思われた。すなわち、こうした悩みの根幹には、「やり取り」であれ「発表」であれ、そもそも言語活動を通じて身につけるべきスピーキングの力とはどのようなものなのかが先生方に了解されていないということがあるのではないか。
生徒たちにもっと英語を話せるようになってほしい。自分がふだんALTや他の英語話者と話しているように、英語を話せている姿のイメージはある。ただ、具体的に何がどのようにできれば「英語のやり取り・発表ができる」ようになったと言えるのかが判然としない。学習指導要領に掲げられた「日常的な話題について、基本的な語句や文を用いて、情報や考え、気持ちなどを話して伝え合うやり取りを続けることができる」とか、「情報や考え、気持ちなどを論理性に注意して話して伝えることができる」というのは具体的にはどういうことなのだろう?
ここで、当該の言語活動に即して「まず過去形が必要になるから…」、「やっぱりこれこれの単語は使うだろうし、発音できないと使うべきタイミングで言えないので…」と語彙・文法・発音の知識面に意識が向く先生は結構いる。しかし、その種の言語活動で必要になるスピーキング技能の下位スキル(つまり、上記の記事で言うところのサブスキル)を明確に挙げて、今回はその内どれに特にフォーカスするかといった議論をすぐに展開できる先生はそれほど多くない。現行指導要領下では、まずは(思考・判断・表現に当たる)達成が目指される言語行動を明確にするのが正着とはいえ、そのために必要となるサブスキルを分析的に把握・整理できることも等しく重要なのではないか(そしてこれが、アセスメント・サイクルにおける思判表[Task Completion]→知技[Language Abilities]の肝だと私は思うのだが、今は措く)。それが先生の中でクリアになっていれば、パフォーマンスのモデルを示すかどうかに迷いは生じないだろう。先生のモデルを単になぞるだけではそのサブスキルを発揮することにならないと生徒が理解すれば、考えなしに復唱するようなパフォーマンスはしないと考えられるからだ。
別のところで某指導主事の先生から受けた、「かつては『仏像作って魂込めず』という、何のためにその練習をしているのかわからないままやらされているような授業が多かったかもしれないが、最近『魂だけあって仏像が無い』という、『思い』だけはあるけど実際にそれを為す『すべ』が身につかないままというような授業が散見される。どうしたものか」という相談の根っこにも同じ問題が含まれているように思われる(「魂だけあって仏像が無い」という表現は相談内容を私が言い換えたもの)。目指す山頂を掲げるだけで、登山ルートの想定も、そこで必要となる登山スキルも、ろくに道具や格好の用意もない登山なんて危険極まりないし、それに付き合わされる同行者もたまったものではない。
スピーキングのサブスキルについて、上記の記事で言及しているRichards (2015)のほか、
- Johnson, K. (Ed.). (2005). Expertise in second language learning and teaching. Palgrave Macmillan.
のMartin Bygateの執筆章(pp. 104−127)なども有益なリソースになる。ただ、この研修で私は、全く異なる角度から
- ローレンス・M.ブラマー&ジンジャー・マクドナルド(堀越 勝・大江 悠樹・新明 一星・藤原 健志(訳))(2011).『対人援助のプロセスとスキル: 関係性を通した心の支援』金子書房.
という文献を紹介した。第4章で挙げられている以下の「自己、及び他者への理解を促進させるためのスキル(技術)」は、外国語としての英語のスピーキング、あるいはインタラクションに当てはめても違和感はなく、「生徒たちが英語でこういうことができるようになってくれたら確かに嬉しい」と思うようなものと言えないだろうか。「聴くスキル」が最初に置かれているのが良いし、そこに「言い換えること」も「明確にすること」も、「現実検討」のラベルで正確さの判断も含まれているのが良いと思う。
- 聴くスキル
- 寄り添うこと: 言語的および非言語的な行動に注目すること
- 言い換えること: 伝えたい基本的なメッセージに応答すること
- 明確にすること: 自己開示することおよび議論に焦点を当てること
- 現実検討: 聞いていることの正確さを判断すること
- 導くスキル
- 間接的な導き: 何かを始めること
- 直接的な導き: 議論を促進したり、より深いものにしたりすること
- 焦点化: 混乱していたり、拡散していたり、漠然としている状況をコントロールすること
- 質問: 開かれた質問や閉ざされた質問をすること
- 反映するスキル
- 感情の反映: 感情に反応すること
- 経験の反映: 全体的な経験に反応すること
- 内容の反映: 新しい言葉で考えを繰り返すこと、あるいは強調のために考えを繰り返すこと
- 挑戦するスキル
- 自己の感情を認識する: 援助者の経験に気づくこと
- 感情を説明し共有する: 感情表現のモデルとなること
- 意見をフィードバックする: 相談者が表現するものに率直に反応すること
- 自己への挑戦
- 解釈するスキル
- 解釈的な質問: 気づきを促進すること
- 空想および隠喩: 考えや感情を象徴化すること
- 情報を提供するスキル
- 助言: 経験に基づく提案や意見を与えること
- 情報提供: 専門的知識に基づく妥当な情報を与えること
- 要約するスキル
- テーマをまとめること
「話すことの指導はこの分類に沿って行われるべき!」などと言いたいわけでは全くないが、それぞれに該当するのは英語では具体的にどういう表現で、これまでの学習を通じて生徒たちが手に入れているのはその内どれで、逆にまだ手に入れていないのはどれかを考えてみるとよい(同僚とのその作業を楽しんでもらえると嬉しいのだが)。そして今回の言語活動のフォーカスはこの中のどれになるだろうか。あるいは上記に足りないと感じるものは何か。そうしたことが全く浮かばないとしたら、その教師は一体何を「モデル」として示そうというのか。
ブラマー&マクドナルド (2011)のような、英語教育の外からのある種の「変化球」を通じて私が伝えたかったのは要するに、言語活動なりパフォーマンス課題・テストなりを重ねて、生徒たちにどういう話し手、あるいは英語使用者になってほしいのか、という方向目標の重要性である。それこそが、目的・場面・状況に応じてコミュニケーションを行うことを通じて、学習者が伸ばしていく言語運用能力であり、それは具体的な語彙・文法・発音の知識を要請し、そうした知識によって裏打ちされるもののはずである。同時に私が危惧しているのは、多くの先生は、特に「話すこと」に関して未だ、この方向目標として確たるものが見えていないのではないかということだ。
パフォーマンス課題を通じて「英語を用いて何ができるようになるか」という到達目標の設定に腐心することが、目指すべき、目指したい方向(目標)を見失わせているのだとすれば、あまりにも皮肉だ。私からすれば、そんな英語教育は、公教育の一環としての言語教育・外国語教育の名に値しない。
学会や研修、あるいは論文・書籍で、効果的な指導法とか言語活動のアイデアなどを盛んに議論するのも結構だが、そもそも生徒たちにどういう英語の担い手になってほしいか、サブスキルのレベルでもっと議論したほうがいいのではないか。もちろんそこにコンセンサスを見出すのは容易ではないが、その価値をめぐる議論から逃げている限り、英語教育界の「コミュニケーション」(論)はいつまでも皮相的なものにとどまるだろう。