メッセージ
[本176] フレイレ『伝達か対話か』
- パウロ・フレイレ(里見 実・楠原 彰・桧垣良子(訳))(1982).『伝達か対話か: 関係変革の教育学』亜紀書房.
フレイレ、やはり熱い。例えば下記。「農民」を「生徒」に置き換えても違和感はない。生徒との対話を軽視する英語の授業全般への進め方(そうした授業観・コミュニケーション観)を批判するものとしても読めるし、「やり取り」の指導の現状を叱咤激励するものとして読むこともできる。
対話は時間の浪費だから、そんなことを実行するわけにはいかないという主張については、何を言ったらいいのだろうか。非常に類型的なこの主張の裏にある経験的事実とは、いったい何なのだろうか。こうした主張をする人びとは結局のところ、自分の技術を施しものとして人に押しつけることを選ぶことになるのであるが。
推論の都合上、こうした主張をおこなう者がすべて、農民との対話をかつて試みたことがあると仮定してみよう。また、その試みが真の対話を導く原理にのっとって実行されたと推定してみよう。そしてそこで追求された集団力学は、けっして操縦型の技術によって方向づけられたものではなかったと認めておこう。さらに、以上のことすべてにもかかわらず、対話は難行し、対話への参加がほとんど、ないし、まったく見られなかったと仮定しよう。
こうした仮定のすべてが現実であったとしても、だからといってわれわれは、対話は育ちえないものであると無造作に結論を下し、こんなやり方は時間の無駄であると言いたてなければならないのだろうか?
われわれが対話を試みようとするとき、なぜ農民達が沈黙し、無表情でいるのか、その理由を問い、調べ、追求したことがかつてあっただろうか? 農民を制約している歴史的・社会学的・文化的条件でないとすれば、それ以外のどこに、かれらの沈黙の理由を見い出すことができるだろうか?(p. 186)
watari
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