[雑感138] 日本教育学会・課題研究Ⅰ「AI の利活用社会における教育的価値」
研究推進委員の一人として、日本教育学会の課題研究Ⅰ「AI の利活用社会における教育的価値: 言語教育を中心に」に登壇した。
新井さんは「アウェー」であることをずいぶん気にしておられたが、教育方法学会であればかなりの程度アウェー感が出たかもしれないが、日本教育学会は必ずしもそうではない、と思う。むしろ私の話した内容に対してのほうが、「そんな授業の断片を切り取ってなんなの」という「アウェー」の空気があったかもしれない。ホームだろうがアウェーだろうが自分は自分なので、だからどうということもないけど。
私が授業(研究)にこだわるのは、言うまでもなく就学期間に学校で最も多くの時間を子どもたちが過ごすのは授業で、それがつまらない状況はどうにかすべきだと思うからである。もちろん教育は学校に限られるわけではないし、学校内外に授業以外の多様な課題があって、それに関心を持つ人たちがいるのも当然だ(制度が崩壊しかねないという意味でシンポジウムのテーマが極めて重要であることは間違いなく、課題研究Ⅰのテーマがよく了承されたものだと思いさえした)。しかし私は「メシが不味い」のはイヤだ。あれこれを解決しようとする前にまず取り掛かるべきことだと考えてきたし、今も考えている。子どもたちの学校生活の満足度(あるいは学校に通いたいと思うかどうか)や学習習慣等々に、ふだんの授業の理解度や知的好奇心を満たしてくれる度合いがいかに寄与しているかといった無数の研究の蓄積を措いても、できるだけ何度も、できるだけ色々に、できるだけ強く(比喩的な意味で)美味しさを毎日の授業に感じてほしい。
このこと自体は、「その通り」から「まあそうだったらいいけどね」までの幅はともかく(特にここでは)異論なく受け止めてもらえそうだが、課題研究に限らず、自由研究発表等、他のところの議論を聞いていても、みんなそういう意味での授業(のおもしろさ)に興味ないのかな?と思う場面がたびたびあった。授業に関わる議論で各人の古い授業観・学習観が垣間見えることもしばしばある。それが各人の成功体験のバックボーンになっていたりするから、ややこしい。
先日、NHKの『時をかけるテレビ〜今こそ見たい!この1本』で放送された『光れ!泥だんご』(2001年)を観たら、加用文男先生が「それをやったおかげで後々あれができるようになったとか、こんな人間になったとか、そういう風に考えるよりは、その時がその時として毎日がつまっていたと受け取るほうがいいんじゃないか」と仰っていて、私が思う授業のメシウマもまさにそれなんだよなあと沁み入った。私が、外国語科の目的論を「自他にとって心地よいコミュニケーションとはどういうものかについて考え、ことばを駆使してそれを実践するための教科」と規定するのも、そういう時間のためである。なんせ英語教育は「後々あれができるようになったとか、こんな人間になった」言説に塗れている。
私とて複数の自治体の授業改善に協力していて、文科省の外国語教育アドバイザーもやっているぐらいだから、統計データに基づいてマクロな判断をすることもある。ただ、授業の事実は授業で見取るほうがいいし、教師や関係者ともそれを元に議論すべきだと考えている。私にとって重要なのは、その時間が児童・生徒にとってその教科固有のしかたで「つまっていた」かどうか、どう充実し得たかなのだ。ミクロからマクロまで、英語教育に充満するややこしさを全て背負う覚悟で、それがまた厄介で面白いと思ってもいるのだが、ふだん同じ目線で議論をしている人たち以外の聴衆に、私の話は届く部分があったのかなかったのか、オンラインでそこを観察できなかったのが残念だ。でも、私以外の登壇者のお力で、たくさんの人たちに参加してもらえたのはありがたかった。