[レビュ−092] 村田・神吉(編)『日本語学習は本当に必要か』
- 村田 晶子・神吉 宇一(編) (2024).『日本語学習は本当に必要か: 多様な現場の葛藤とことばの教育』明石書店.
いただきもの。ちょうど重版出来されたということで私のレビューなど不要だろうが、構成・内容ともに本当によくできたアンソロジーだ。タイトルの意味は読んでいけばしみじみよく理解でき、第9章の視点を借りれば、後半に進むにつれて日本語学習・教育の見方について変容が少なからずもたらされるのは間違いない。
第1章の解説を借りれば、「より広い意味でダブルバインドの概念を用い、留学生や外国人労働者が日本語を学ぶ際に感じる、相反するメッセージ、つまり、『日本語は必要ないので日本に来てほしい』というメッセージと、現場の上司や同僚、また学内の制度上、『日本語は必要』というメッセージの間で、疑問を感じたり、葛藤したりする状況について考えていく(第2章から第4章)。さらに、ダブルバインドというと、二つの相反するメッセージに限定されるが、より視点を広げて、様々な現場の文脈に埋め込まれた矛盾するメッセージを受け取ることにより、日本語を学ぶこと、教えることに対して感じる迷いや疑問に光をあてていく(第5章から第12章)」(p. 17)。
これを(日本での、外国語としての)英語教育に置き換えてみると、「『英語は必要』というメッセージの間で、疑問を感じたり、葛藤したりする状況」について(実証的・理論的に)考えようとする文献が最近あっただろうか?「様々な現場の文脈に埋め込まれた矛盾するメッセージを受け取ることにより、英語を学ぶこと、教えることに対して感じる迷いや疑問に光をあて」ようとしている英語教育関係者はどの程度いるだろうか?英語教育関係者こそ本書を読んだほうがいいし、もうちょっと言い過ぎると、英語(中心に行われてきた外国語教育研究)の権威を笠に着て偉そうにするのをやめ、もっと真剣に日本語教育から学ぶべきだ。本書はその入り口として最適の一冊と言えるだろう。私自身も本書のきめ細やかさに大いに学んだ。教育学関連の授業を担当していれば第8章「『夜間中学=日本語学校化』は本当か」は必ず参考文献として紹介するであろうし、第11章「『やさしい日本語より英語でしょ?』」は英語教職課程の学生たちにぜひぶつけたい論考である。
そうした12章の中でも、3つの調査から就労における日本語教育を問うた神吉章(第5章)は実に鮮やかだ。「多くの就労現場で、本来就労現場・企業の責任でコミュニケーションの環境を整えたり、人材配置や育成を行ったりしなければならないところを、日本語教育者の『善意』が、就労現場・企業の取り組みを後退させ、結果として就労現場・企業が責任を追わなくてもよいような形を作り出してしまっているとはいえないだろうか」(p. 87)という問いかけにガツンと頭を殴られた心地がし、翻って英語教育者の「善意」はどうだろうかとフラフラ考えてしまう。
神吉章はそこにとどまらず、「業務では日本語が必要でないにもかかわらず、企業側は採用時には日本語力を重視しており、外国人側も日本語を話したい人がいる」(p. 90)という事実を示し、「今後の就労の日本語教育でもとめられるのは、ことばやコミュニケーション、そしてその教育が効率化とは相性が悪いということを踏まえ、そこにこそ価値を見いだしていくことであろう。それは、人と人がかかわりをもっていくこと、人々のつながりを作り出すこと、そのために『用事がなくてもわざわざ話す』『用を足すことを目的とするのではなく、ことばを通して自分を語り相手を知る』というようなことに価値を見いだしていくことが必要である」(p. 94)ことを訴える。先日の日本教育学会で私が、やり取りが「予定調和的トランザクション」に終始するおそれに警鐘を鳴らし、「言語がコミュニケーションにとって不完全なものであるからこそ良い」と言ったのとまさに軌を一にする主張だ。学会の報告はこの章を読む前で、『よい教育研究とはなにか』の共訳にお声がけしたのも、本書以前なので、「スタンド使いはひかれ合う」ことをまざまざと実感する。またコラボしたいですね。