[雑感138] ESL/EFLという区別の限界

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私がしばしば言及してきたので、UBCのYamamotoさんがしてくれた

という投稿を切り口に。

まず、Richards (2015)について言うと、過去2回学部3、4年ゼミでPart 3 Language and the four skills (pp. 261−554)を半期で(若干の力技で)読んだ。半期で1 Partを扱えるとすれば、諸々を考慮して私はしないものの、4つのPartで教科教育法8単位を構成することも可能は可能だと言える。私が本書を学生と講読して実感する「効能」は、頑張ってちゃんと読めば、(1)外国語教育の知識・技能に関する基本的な知識が手に入り、(2)教採の英語の問題は余裕になるくらいの読む力が身につくということだが、院生は2周目がいちばん勉強になって美味しいと言うので、学部生には歯応えがやや上回っているかもしれない。

Richards (2015)は、なにより平易な英語で、目配りが効いてバランスの取れた記述が魅力だ。日々、先生方と話す限り、どの技能の指導に関してもまだまだ先生方のところに届いていない、あるいはレパートリーに加わっていないこともある。故に私は教員研修の資料としても有効だと思う。当たり前だが、書いてあることが全て正しい、すごいというわけではない。「日本の中高ではこういう捉え方はあんまりしないねえ」ということも結構ある。それは何故かと議論して、採り入れる余地やオルタナティブを検討できるとよい。

とはいえ、10年経つので更新が必要な部分もある。その典型例が英語に関するEFL (English as a foreign language)/ESL (English as a second language)という区分だ。Glossaryでは”Traditionally”という副詞が添えられてはいるとはいえ、Richards (2015)で展開される議論は基本的にこの区分を前提としている。Richards (2015)に限らず私も、「ESL環境での研究結果が、日本のようなEFL環境に当てはまるとは限らない」とSLAの論文をよく批判してきたクチであるし、英語科教育法のテキストである

の担当章(「英語という言語の特質: どのような英語を学び教えるのか?」、pp. 4–22)でも、この区分を紹介している。ただ、日本国内にも外国語としてではなく第二言語として英語を使用する人は少なからずいるし、動画コンテンツ等々の発展した今日ではどっぷり英語に浸かる環境を自分で構築することもできるわけで、EFL/ESLという壁を設けることがどの程度有効なのかと徐々に疑問を抱くようになった。

そうフツフツと思っていた折に出会ったIonin & Montrul (2023, p. 33)が、第二言語習得における介入研究の観点から、居住地に基づく「外国語環境」と「第二言語環境」という分け方は不正確だと指摘し、目標言語(つまりEFL/ESLの場合は英語)に対するexposureの性質に応じた

  • Foreign language settings
  • Immersive settings

という区分を提案していた。前者では、学習者によってはメディアや目標言語の話者とのインタラクションを通じてより多くの接触を持つ者もいるかもしれないが、目標言語に触れる機会はある程度均一で、概ね教室に限られそうだと言える。一方、後者では、学習者の母語も目標言語に触れる状況にもかなりの多様性を想定しなければならない。例えば、その第二言語が広く用いられている国への移民、留学中の教室学習者、家族を通じて第二言語に触れることになる継承語話者など。

Ionin & Montrul (2023)の議論は、(介入による)第二言語習得研究にとって意味のある概念区分という観点からのもの(で、SLAの介入研究の大半がImmersive settingsを前提として行われてきた、という指摘が続くの)だが、英語教育を考える上でもそれなりに(少なくともEFL/ESLという分け方よりは)有用な視点だと思う。何が言いたいかと言えば、上記の「学ぶ」・「教える」の観点から考える 実践的英語科教育法』はそろそろ改訂したいなあということなのだが、Richards (2015)を読む際もこういった点はアップデートして批判的に読まれたい。

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