レビュー
[レビュ−094] 石岡『エスノグラフィ入門』

[レビュ−094] 石岡『エスノグラフィ入門』

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私は当然ながら授業観察の視点から読んだ。「フィールドに学ぶというのは、自分の携えた枠組みをフィールドの現実に優先させるのではなく、フィールドで人々が生きている現実を直視することから考察を出発させる態度のことを言います」(p. 72)。この意味で、私自身、授業を観て先生方と授業づくりを行う目的の一つが、「フィールドに学ぶ」ことにあるのは間違いない。

全体を通じて、「観察にはそれに則した移動速度があります」(p. 54)とか、「重要なのは、あらかじめ自分が持っている見解を、フィールドの現実と付き合わせていく作業」(pp. 71–72)であって、「対象に迫るためには、対象に向き合うみずからの『色メガネ』に自覚的になる必要」(p. 98)があることなど、著者の経験に裏打ちされたフィールドワークの方法論だけで十分、授業観察に対しても示唆的である。

あるいは、「客観的な把握をするのではなく、ある人々にとっての把握を目指す」、すなわち「バイアスのかかった事実をバイアスの所在の明記と共に捉えていく」という指摘(p. 251。「ある人々にとっての」に傍点)。この認識論は、英語教育を中心として、授業研究において全く一般的とは言えないし、教育の言葉でその価値を掘り下げる余地はまだまだある。

関連して印象的だったのは、「フィールドノートに記録されるのは、徹頭徹尾、ミクロでローカルな一回性の内容です。でもその記録が生み出される背景には、社会学の古典からの影響がある。ここに個別事例ではあるけれども、個別事例に留まらない水準が現れることになります。個別的ではあるけれど、普遍的な論点を伴った、具体的な場面が登場するのです」という一節(p. 215)。

本書と併せて『現代思想』2023年9月号(特集*生活史/エスノグラフィー: 多様な〈生〉を記録することの思想)の石岡 丈昇・打越 正行・岸 政彦「距離・時間・ディティール」を読むと一つの学校・学級に継続して何度も入りたいなあという気持ちも湧いてくるのだが、「ミクロでローカルな一回性」の事後協議会での私の発言にも、これまでの経験に加え、「古典」かどうかはともかく、教育方法学や外国語教育学からの影響が少なからずあるのだろう。今後はその点をもう少し自覚的に探ってみたい。

「おそらくそういう構造に対する大局的で鋭い批判というのは”離れる”ことでしかできない気がするんです。例えば原発事故のようなことがあったあと、ジャーナリストも社会学者も『これからどうなるのか』を問おうとします。その視点はたしかに重要ですが、ある意味でそれは徹底して外に立って観察することなんですよね。しかしその渦中にいる本人自身にとっては、『どうなるのか』ではなく『どうするのか』が問題になってくる」(石岡・打越・岸, 2023, p. 18)。「大局」を振りかざすのでも目先のhowに埋没するのでもなく、「その渦中にいる」先生方と、「どうであり得たのか」を語り合いつつ、「どうするのか」を展望したい。フィールドワーク社会学の息遣いを感じさせてもらいながら、そういう風に自分の「背骨」を整えてもらった気がする。

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