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[レビュー098] 北村『遊びと利他』

[レビュー098] 北村『遊びと利他』

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渡辺貴裕さん(東京学芸大)の紹介で存在を知り手に取ったが、私はどちらかと言えば英語教育における言語(コミュニケーション)活動やICTの活用に照らしながら読んだ。本書で紹介されている3つの遊び場とその分析は、特に年末にHarvest Winter Sessionでお会いした先生方に紹介したいと思った。

「危険性を遠ざければ遠ざけるほど、子供は危険なことを体験せず、乗り越える精神も方法も身につかない。危険でない遊具ばかりになると、子供は神経を研ぎ澄ませることなく遊具に体を預けて頼り切ってしまう」(p. 145)とか、「いくら豪華で大きな遊具であっても、画一的な遊び方を押し付けてくるような遊具は、すぐに子供が飽きてしまう」(p. 258)といった、言語活動へのほとんど直接の警句にも思える言葉をあちこちで拾うことができる。かつて私が述べた「『誤りなく、成功しかしない、予定調和的コミュニケーション』から離れられたときにはじめて、学校教育の一環としての外国語教育は、もっと言えば授業におけるコミュニケーションは、それに必要な能力の探究を次の段階へと進められる」(『流行に踊る日本の教育』東洋館出版社、2021年、p. 195)という指摘にも重なる部分がある。

「個別最適」が踊る昨今、あるいはそれ以前からも、何かの課題について「できれば子供たちだけでコミュニケーションを交わして解決に向かうほうがいい。大人は手を出さず、子供たち自身で解決するのをじっと見守る」(p. 115)ことが望ましい、できればそうしたいと思う教師は少なくないはずだ。しかし一方で、英語の授業が「『20回遊んだら交代してね』という看板」(pp. 80–84)と同じことをしてしまっていないか、そうせざるを得ないとすれば理由はどこにあるのか、あるいはそれを問題だと思う感性を英語教師が失っていないかといったことを、本書を通じて検討することもできる。その意味で教科教育法などの(レポート)参考文献にもなり得るだろう。

「現象学の視点から遊ぶ主体を論じたフランスの哲学者ジャック・アンリオは、『おもちゃは現実の世界と想像の世界のあいだをつなぐ媒介物』だと述べている」(p. 50)。この点で、英語教育の言語活動は言わずもがな「現実の世界」に軸足が置かれ、「想像の世界」が希薄になりがちである。そして私が好きな先生の授業には、この「想像の世界」の余地が豊かで、「現実の世界」とのバランスが良い活動がある。

本書の重要分析概念であるカイヨワの遊び論は非常に示唆的で、外国語教育においても

で取り上げられている。まだまだ掘り下げる余地があると個人的には思うのだが、海外の論文を見る限りその後あまり広がらなかったようであり、国内でもほとんど受容されていない。

しかし分野の傍流の隅に生える雑草の私は、「日替わりのメニューは店主が決めているのではなく、土曜日に『来週何が食べたいですか?』と来店客に聞いて決めているらしい。そう尋ねられると来週来られないという人もいるが、来店の必要はないと説明する。いま食べているメニューも先週の誰かのリクエストだと説明すると少し嬉しそうな表情を浮かべるのだという」(p. 322)という未来食堂の記述を読んで、これに似たことを英語の授業で実現できないかななどと考える。

もちろんまったく手がかりなしに夢想しているわけではなく、コロナ禍以前に小学校で観た、Macbookのphotoboothを用いた時間差の自己紹介とそれに対するコメントの活動を思い出すからだ。せっかく端末が学校にあるのなら…ということも実践の背景にはあったものの、教室内を歩き回って直接やり取りすると、特定の相手に偏ってしまったり、相手を目の前にして怯んでしまう児童もいる。落ち着いた状態で自分の自己紹介を端末に録画しておいて、その端末の前に来た児童が自己紹介を観てコメントをさらに録画で残していく。自分の席に戻ってきて他の児童のコメントを見た少なくない児童たちが当時「少し嬉しそうな表情」を浮かべていた。

高校時代、机の落書きを通じた文通で盛り上がった先に直接顔を見に来てガッカリされた苦い経験もあるから、いつでも「少し嬉しそうな表情」につながるとは保証できないが、だからこそ「”いつかの誰か”に思いを馳せながら」asynchronousに行うコミュニケーション活動だって追究されていいんじゃないかと思う。もっと遊べよ、英語教育。

私がここまで本書を英語教育に引き付けて読めるのは、本書の「利他」という視点が、私が外国語教育について掲げる「自他にとって心地よいコミュニケーションとはどういうものかについて考え、ことばを駆使してそれを実践する」という教科目的論に響くからだ。「利他とは『他』を敏感に感じ取る力が基盤にある。多なる存在がいかに活かされうるかを想像し、連想する力。それを育んでゆく環境と可能にする『余白』のあるモノ。これらが組みあわさることで、お互いに潜在する力が引き出され、利他的な遊びが生まれるのである」(p. 227)。「余白」はHarvest Winter Sessionでもキーワードの一つだった。アゲイン、もっと遊べよ、英語教育。

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