[雑感143][映画014] 「学校」が関係概念で、いとなみ続けなければならないものであること

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秋学期の授業が全て終わり、ようやく観に行くことができた。映画『小学校 〜それは小さな 社会〜』について。

まず最初に思ったことは、渡辺貴裕さん(東京学芸大)と一緒で、「集音、すごいな」ということだった。ねらった児童の声は漏れなくクリアだし、カメラ後方に離れていったわたなべ先生が背中ごしで鼻を啜ったのまで逃さなかったの(はさすがにピンマイクかもしれないが、それも指向性マイクなのだとしたら、それに)は驚いた。同じマイクが欲しい。

とにかく撮影と編集が巧みだ。他の人の感想は基本的に見ないのだが、ちょっと考えれば、映画で映し出されるシーンだけを完全にねらって撮ることは不可能なのだから、膨大な量の映像から取捨選択して繋いで作られているということは分かるだろう。そこに監督の見せたいものがあるわけで、それ自体に正解も不正解もない。子どもたちも先生方もカメラを特別視しなくなるまで入り込んで、コロナ禍という特殊な1年間を丁寧に追った労作だと思う(特に、放送室の距離感とか、一体どうやったんだろう?)。

さらに基本的に1年生と6年生の数人にしかフォーカスしていないのは事実で、学校全体で見れば同じような「物語」を無数に取り出すことができたであろうことは間違いない。各教科の授業中の子どもの姿もほとんど出てこない(私にとっては残念なことではあるが、子どもたちの学習状況をほとんど見せないのはこの映画の配慮でもある)。しかし、そこに文句をつけるのは愚かで、「客観性」の浅い理解にとらわれているか、ドキュメンタリーを役所の戸籍管理か何かと勘違いしている。全てを語ろうとすれば何も語っていないのと同じになる。本作は、学校生活や特別活動・学校行事の姿を中心に、小学校の入口と出口の一部を通じた、ある視点での切り取りであり、それ自体に学校の時空間で起きていることについての解釈が含まれているのだ。誰よりも早く早朝に出勤して教室にルンバを走らせるえんどう先生の姿の切り取りは、ちょっと『PERFECT DAYS』のヴィム・ヴェンダースみが(ということは小津安二郎みも)漂う。

私は、講義で授業観察について扱う際、NHKのドキュメンタリー「映画監督 羽仁進の世界 〜すべては“教室の子供たち”からはじまった〜」(2020年放送)の一部を見てもらって、羽仁監督の「僕は子どもたちの今ある、あるがままを写すんじゃなくて、そこからちょっと飛び出す、その人自身も知らなかった”生の瞬間”みたいなものを撮りたい」という言葉を伝える。この言葉は、是枝裕和監督が『もう一つの教育 伊那小学校春組の記録』を撮った際に参考にしたという『教室の子供たち』の(是枝監督が「仕込んだんじゃないとすれば『奇跡』」と評する)あるシーンを巡って、羽仁監督の間接的応答として差し込まれるものだ。『小学校 〜それは小さな 社会〜』の編集の仕方から、「この映画の監督やスタッフも同じような気持ちを持っているような気がする」と私は感じた。典型的なのは、運動イベントでの6年生のきはらさんの成長で、えんどう先生がパフォーマンス時やあの前後にきはらさんの葛藤や成長を十分に見取れていなかったのだとすれば、それだけでもえんどう先生は報われるし、この映画(の撮影)は価値があると言えるだろう。

他にも、この「生の瞬間」は、1年生のあやねさんがシンバルのオーディションに合格し、教室に戻って水筒の飲み物を飲んだ後の表情によく表れている(なんなら、その前日?の大太鼓担当オーディションで、自分の所属クラスが呼ばれたところでぬか喜びする表情から追っているし、お母さんの体調が悪いのが心配だと帰る前に泣いているところから、泣きやすいあやねさんへの関心は捉えられているのだ)。武田信子先生のnoteを読むと、新1年生歓迎会の音楽担当の先生が、このあやねさんを合同での練習中に叱ったことについて、世間では「言い過ぎだ」、「やり過ぎだ」という感想が飛び交っているらしい。しかしこうした物言いは、あやねさんと接することのない、安全なところからの後出しジャンケンに過ぎないと思う。この先生が叱らずとも歓迎会も彼女の演奏もうまくいった可能性はもちろんある。確かにその可能性はあるが、叱られず「選ばれた」ことだけで慢心したままろくに練習もしないとしたら彼女はどうなってしまっただろうか。あるいは本番で大失敗してしまったとしたら、心にどんな傷が残っただろうか。批判する人たちはそういった一切の責任を取りはしないだろう。

叱った先生自身とて、叱った際に「正解」など持ち合わせてはいなかっただろう。「いいよ、いいよ」と流すこともできたかもしれないが、あやねさんのことを考え、敢えて叱ることに「賭けた」のであろう。そのように監督が捉えていることは、その後の(同僚のわたなべ先生や自身の)フォローや励ましの姿を観ても分かる。制作側はそうしたシーンも意図的に配置し、あやねさんが見事にやり遂げるシーンまでを盛り込んでいるのだ。もちろん、そもそも新2年生がなぜそこまでの責任を連帯で背負い、1年生の終盤に必死で練習しなければならないのかという視点はあり得る。しかし、歓迎会やシンバルの役割に入れ込んでいるのは当のあやねさんなのだ。その当のあやねさんと向き合い、(できる[ようになる]と)信じているからこそ叱った先生を外側から責める人は、一人ひとりの子どもと真剣に対峙する「先生」という仕事を軽く見ているのではないか。内側の同僚は(少なくとも映っている限りは)彼を責めていない。理解してフォローに回っている。

武田先生とやり取りした際に答えたことだが、本作に対するこういう表面的な批判は、教育(制度・実践)について中途半端にしか知らないのに、あたかも全体・細部をわかっているかのように教育を語ってしまうことから生じると私は思う(昔から続く、いわゆる一億総教育評論家問題)。「一方で私はよく知っている」と言いたいのではなくて、われわれはみな、教育(制度・実践)について中途半端にしか知らないのである。そのことを自覚した上で、小中高にそれなりに関わりを持つ教育学者としての経験に基づいて言えば、あちこちにひどい学校はあるかもしれないが、この学校は(世田谷区教育委員会が密着・公開を認めるぐらい)良い地域の良い学校だし、学校の是非とは関係なくドキュメンタリー作品として評価されてよい映画だ。

私自身、通知表の所見欄に6年間「落ち着きがない」と書かれ続けた(しかも異なる3人の先生に、一言一句同じ言葉で!)小学校時代を過ごしたので、仮に児童としてこの学校にいても、落ち着きなく飛び跳ねては、靴もろくに揃えず話も聞かずタブレットを触り続け、オーディションにもチャレンジせず、トライアングルか鍵盤ハーモニカをみんなと担当して自分が間違えたことも誤魔化して過ごしていただろうと思うが、全体として日本の小学校が強制性・儀式性の強いシステムになっていることと、この学校や、そこで働く先生方の実践、子どもたちのあらわれをどう見るかということのレイヤーを切り分けられない人は、この映画を観ても自分の成功体験やルサンチマンに沿って反応するだけになってしまうのだろう。そしてどこかに「カンペキな教育」がready-madeであると勘違いしている。

しかし、この映画はちゃんと、そうした管理・統制について「行き過ぎてるかな?」という先生方の迷いも映し出している。そしてこの学校の先生方は、1年生でも6年生でも、それぞれに合わせて自らが(専門職として)信じるやり方で「克己心」を子どもたちに発揮してもらおうとしている。学校システムや教師が「ひどいひどい」と括るのは簡単だが、6〜12歳ぐらいの時期に、自己や他者と対話しながら、汗かきべそかきこの「克己心」を育む場所を他に社会のどこで用意できると言うのだろうか?自分たちにできるのだろうか?裕福な人たちだけが享受できそうな私教育以外で広く実現することはできるのだろうか?

この映画は、コロナ禍でのこの学校の選択や判断が正しいとも悪いとも、変だとも素晴らしいとも断じていないが、上述の記事で武田先生が書かれている通り様々な点で議論を喚起する点に良さがあり(ドキュメンタリーとして優れていて)、上の投稿で私が書いたような子どもの育ちを見取っている点が私は好きである。そして、それが「学校」の役割を暗に伝えているとも思う。「教育」という実体があるわけではなく、それが関係を意味する概念であり(つまり、「である」ことではなく「すること」なのであり)、「学校」という箱は確かに実体としてあるけれども、その機能においては「教育」と同じく関係概念であると考えれば、公教育の一環としての「(小)学校」は、その営為を日々続けていることにこそ真髄がある。そういう視点で(もう一度)この映画を観てみてほしい。

上記のきはらさんやあやねさんを巡る「ストーリー」とは一見無縁の、まこさんに登校時に「なんで走っ(て先に行っちゃっ)たの?!」と訊かれて、「え”?!」と投げやりに困惑のレスポンスを返すゆうたろうさんの姿なんかも(2人の関係性についてそれなりに示唆的な切り取りはあるのだが)、いかにも小学生的あらわれという感じで私は興味深く見守った。理由なんて聞かれても「え”?!」だよね、と思う。そういう子どものあらわれを切り捨てていないのもこの映画の良いところだと思う。

で、結局まこさんの「2+9」は見つかったのか、私はそればかりが気になって仕方がない。

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