[レビュー056] 佐々木『リテリングを活用した英語指導』
タイトルの通り、リテリングそのもののやり方や指導上の留意点については豊富な例とともに比較的よく整理されている。僭越ながら「教材研究」をちゃんとしている先生という印象。
- 佐々木 啓成 (2020).『リテリングを活用した英語指導: 理解した内容を自分の言葉で発信する』大修館書店.
ただ、なぜリテリングをするのかという問い、別の言い方をすると「このリテリングにはコミュニケーション上なんの意味があるのか」という生徒の思いには本書は答えていない。ジャイロ・ツェペリのように納得が全てに優先する私は最初に出会ったときから現在に至るまで、リテリングのそこがいつも引っかかっている。それって本当に「自分の言葉」での「発信」かな?という疑念だ。
リテリング(retelling)が、言語行為として不自然だと言うつもりはないし、必ずしも先にtellingしてからretellingすべしと言いたいわけでもない。Retellingが広義のtellingという上位カテゴリーの下にあって、reporting、complaining、scoldingなどなどが並ぶと考えた場合、生徒が学習で辿る道筋を考えると、必ずしも「語り」が先にあるとは限らないからだ。経験や思考を価値のあるものとして「語る」のは簡単なことではなく、誰かから聞いた話や読んだ話を誰かに伝える形での対象世界との出会いは、経験が浅い段階ではよくあることだと考えられる。そして(同じラベルの下にある)狭義のtellingを対象世界の切り取り(対象世界と自分との対話)と捉えた場合、retellingというのはそれ以上に他者を前提としているというか、媒介的な言語行為であることが分かる。その看板を掲げるわりには、「リテリング指導」の多くが何のために、誰に伝えるのかを大事にしていないことが気になるのである。
英語を学ぶことが自明とされていて、学習上必要・有効だからリテリングをするのだというのが教える側の理屈だが、教室で少なくない生徒がノって来ないのは、私と同様のツェペリ魂がどこかで違和感のアラートを鳴らすからではないか。本書に提示されたアンケート結果にも少なからずそれは表れているように私には思える。われわれが本当にretellingしたいことって、特定の相手との具体的な関係性において、「ねえねえ聞いて!」と少なからぬ驚きや怒りや喜びに突き動かされて語らずにはいられないことだったり、これは是非共有したいという(結果はともかく見込みとしては)「すべらない話」だったりするんじゃないだろうか。
教科書の各課・各パートの出口をスピーキングにしたい高校の先生方がたどり着く「最適解」の一つなのかなと思う一方で、「リテリング」という言葉で鵜呑みにしてしまわず、対話にこだわる立場から原理的な考察をしておきたいと思う次第(「コミュニケーション」を装うことの咎を「リテリング」にのみ帰すのは酷なことではあるものの)。まずはぜひ本書を手に取って、自身の実践と比較して批判的に読まれたい。