[雑感099] 地獄への道は「教育データの利活用」で敷き詰められている
1月7日に公表された「教育データ利活用ロードマップ」について。
昔から森永のMt. RAINIERが好きだ。以前はカフェラッテをよく飲んでいたが、今はエスプレッソ一辺倒。通販サイトで箱買いしたほうがいいぐらいの消費量ではあるが、量販店で買うのが最も安い。静岡にいた頃は近所のドラッグストアで約1週間分をまとめ買いしていた。おそらくその店舗では、私が越してきた頃に「エスプレッソだけよく出るな〜」と発注担当の人が思い、その後は、その店のポイントカードの(POS)データにより(そんな照会をいちいちするとは思わないが)「Mt. RAINIER買うやつ」として安定的な購買パターンが店側に把握されていたことだろう。
しかし、後をつけられていたのでない限り、Mr. RAINIERを買い込んだのと同じ足で、コンビニに立ち寄ってサラダやファミチキを買っていたことはドラッグストアには把握されていない。ましてやTポイントカードもファミマ・カードも頑なに拒否してきた私なので、当該店舗の店員さん以外に「Mt. RAINIERが詰め込まれたドラッグストアの袋を抱えたあいつは今日もファミチキを頼むだろう」と知る者はなく、実際のところ、中身が見えない袋の中に約1週間分のMt. RAINIERが入っていることはコンビニの店員さんも知る由はない。「(Mt. RAINIERが詰め込まれたドラッグストアの)袋を抱えたあいつは今日もファミチキを頼む」というデータはおそらく、店員さんがお手拭きを用意し、手を消毒する予備動作の構えに活かされたに過ぎないと思われる。ましてや私が転居したことはどちらの店も知らない。昨年の4月ごろ、「エスプレッソちょっと出なくなったな〜」と発注担当の人は思ったことだろう。
この時、転居先にMr. RAINIERのまとめ売りのチラシが入っていたり、たまたま立ち寄ったファミマで「ファミチキ食べないんですか?」などと言われることのない世の中でよかった、と思う。あるいは、Googleの地図に常に売っているところが表示されて通知が届くとか、タカナシ乳業のスタバのエスプレッソを手に取ろうとすると「それはMt. RAINIERではありません」とSiriが言うとか。それぐらいなら流せるかもしれないが、仮に私がタカナシ乳業の面接を受けた際に、「でもあなたは、データによれば、弊社の商品ではなく、頻繁に森永さんのMt. RAINIERを愛飲されているようですね。どうしてウチに?」などと詰め寄られたら最悪だ。いや、その場合はタカナシ乳業を受ける時点で私も覚悟して臨むだろうが、飲食物の嗜好と全く関わりのない企業から、知らない内に、糖分の摂り過ぎやカフェイン中毒による健康リスクで選別されていたり(健康診断オールAの優等生なのに!)、食習慣改善の研修プログラムが組まれていたりしたら、それはもうディストピアという他ない。サイトやSNSを開くたびに、「カフェイン中毒が人生をダメにする15の理由」なんていう記事が次々流れてきたりして追い込まれていくのだ。
というのは単なる話のマクラだが、教育に関してそう遠くない懸念を多くの人に呼び起こしたのが、「教育データ利活用ロードマップを公表~デジタル庁、総務省、文部科学省、経済産業省が策定」という件である。
上のような懸念の表明はいくらでもできるし、既に多くの人が声を挙げているので、ここではもう少し具体的に「その論理の飛躍や隠された意図が気になるぞ!」という部分に絞って、公表された資料を検討してみたい。聞こえがいい言葉が並んでいるように見えなくもない、「誰もが、いつでもどこからでも、誰とでも、自分らしく学べる社会」という「教育のデジタル化のミッション」と、「データの①スコープ(範囲)、②品質、③組み合わせ、の拡大・充実により、教育の質を向上させる」という「教育のデジタル化のビジョン」自体にも別途批判は必要だ(p. 5)。さしあたり以下の記事を参照されたい。
- 「教育データ利活用ロードマップ」がもつ学習観・成長観の問題 〜「自分らしく学べる」とは〜|渡辺 貴裕|教育方法学者
- 日本のヒヨコちゃんたちが美味しいニワトリになりますように・・・始まるノンフィクション 子どもの商品化|武田 信子 | Nobuko Takeda
例えば、「8. 教育データ利活用のルール・ポリシー(基本的な考え方)」(p. 34)には、「教育データの利活用の原則(R3.3教育データの利活用に関する有識者会議中間まとめ)」の5点として、(1)教育・学習は、技術に優先すること、(2)最新・汎用的な技術を活用すること、(3)簡便かつ効果的な仕組みを目指すこと、(4)安全・安心を確保すること、(5)スモールスタート・逐次改善していくことが挙げられている。資料p. 34ではそこに「ミッション・ビジョン等を踏まえ、追加的に考慮すべき要素」が加えられているが、これがかなりおかしい。畢竟、市場化解放・拡大宣言だ。
(1)に対して「追加的に考慮すべき要素」は突然、「個別最適な学びと協働的な学びの実現のために、教育・学習の在り方もアップデートし続ける必要がある」、「『デジタル社会を形成するための基本原則』の考え方を、教育分野でも貫徹する必要がある」と言う(p. 34)。前者は、「技術やデータを利活用すること自体が目的化しないことを前提として」という留保は付されているものの、「原則」がまさに「ロボット3原則」のようなものを並べているのに対して、「人間とロボットの境界を考え直す(アップデートし続ける)必要がある」と言い出して横紙破りするようなもので、サラ・コナーだったらとっくにブチ切れているだろう。つまり、ここで優先される「教育・学習」は「個別最適な学びと協働的な学び」以外ではなく、そのためであれば現在の「教育・学習の在り方」の中にいる個々人よりも「教育データの利活用」が優先すると言っているに等しい。後者は、「デジタル社会の目指すビジョン」として謳われているのが「デジタルの活用により、一人一人のニーズに合ったサービスを選ぶことができ、多様な幸せが実現できる社会」(p. 5)なので、教育を「サービス」と捉え、顧客のニーズに応じることを貫徹せよと言っているわけだ。
(2)に対して、資料は「初等中等教育のみならず、高等教育や生涯学習、さらには就学前教育も見据えたシームレスなデータの利活用を考えていく必要がある」というのは、相当飛躍があると言わざるを得ない(p. 34)。「国際標準等を取り入れること」や汎用的なシステムを利用することと、初等中等教育以外でのこうしたデータの必要性や、ゆりかごから墓場までをつないで把握しようとすることとは全く位相の違う問題だろう。強いて言えば、2つ目の「学校内外でのデータの将来的な連携」のほうが、企業がTポイントカードや楽天カードで顧客情報の一元的把握を企図するような、教育産業にとって都合の良い意図がそこに隠れているとしても、異なるOSやアプリケーションで不効率が発生しないように、という意味でまだ「汎用的な技術の活用」に整合する。
これは穿った見方かもしれないが、上の2つの時点で信用を損なっているために、(3)に対する「徹底した利用者目線に立ち、UI(User Interface)・UX(User Experience)を改善する」というのは、「利用者」となっていて「児童・生徒」ではないことが気になってしまう(p. 34)。加えて、「『教員が』必ずしも行う必要がない集計や事務作業を省き、 学校現場の校務の効率化につなげるなど、デジタルを踏まえた業務改革(BPR)を行う」とあるが、集計や事務作業自体がなくなるわけではないのだから、では誰が教員の代わりに集計や事務作業を行うのかと考えれば、民間企業への委託ということになる。浅野(2021)のレビューでも指摘した通り、そのコストは誰が負担するのかという議論が依然としてない。「データの利活用(の仕組み)」だけが強制されて、学校や自治体がその費用を負担できなければ結局、教員の負担が増すだけだろう。
「7. 学校・自治体等のデータ利活用環境の整備(施策の方向性)」(p. 33)で挙げられた論点・課題についても、「学校のネットワーク回線が遅いという声が児童生徒・教職員から多数寄せられた」ことに対する「施策の方向性」は、「引き続き、不具合等に関する情報を収集・分析するとともに、その課題解決方法も含めて、学校設置者等に適宜情報提供を行うことでネットワーク環境の改善を支援」という的のハズし方であり(「不具合」ではなくて、そもそも満足に整えられていないのだし、情報提供を行なったぐらいで改善するなら苦労はしない)、「学校ネットワーク環境について全国一斉にネットワーク環境の点検・応急対応を実施し、学校を取り巻く地域的な要因を含め、原因に応じた解決を図る」と言っているぐらいだから(その「点検・応急対応」を実施したり「解決を図」ったりするのは誰なのさ、圧倒的に負担増やしてんじゃん)、彼らが学校現場に対して徹底してBYOD (Bring Your Own Dedication)なのは、推して知るべきである。
(4)からの飛躍はもっと深刻だ。「必要な人が必要な時に必要な情報に容易にアクセスできるようにする」は「業者」が「お金を儲けたい時に」と置き換えられてしまう(p. 34)。「個人情報等の適正な取扱いを確保」と謳うものの、「教育データを利活用して、児童生徒個々人のふるい分けを行ったり、信条や価値観等のうち本人が外部に表出することを望まない内面の部分を可視化することがないようにする」というのは、「ふるい分け」(が何を意味するのかは判然としないが)や「可視化」を抑えると述べただけで、個々人の信条や価値観に関わるデータ収集そのものは否定していない点で恐ろしい。要するに「個々人の信条や価値観に関わるデータを集めて教育データとして利活用します」と堂々と宣言していて、児童・生徒および保護者のデータを集められたくない、あるいは教師のデータを集めたくない権利はまったく無視だ。安全・安心などどこにもない。
そんなものに対して(5)で挙げられた「アジャイル思考」などというものは、拙速と呼ぶべきで、余計でしかない。マイナンバー・カードや新型コロナウイルス接触確認アプリ、あるいはeポートフォリオのグダグダなどで明らかな通り、彼らがアジャイルに余計なことをした結果、どういうことになるかは想像がつく。具体的なことが明らかになってデータの提供を渋る個人や学校・自治体が次々出てきた際には、マイナンバー・カードよろしく、札束で頬を叩くように、ポイント(=お金)で釣ったり、「いま教育データ利活用に協力すると!」などと様々にインセンティブをつけようとするだろう。マイナンバーカードもそうだが、その原資はわれわれの税金であり、民間企業がそれを行う場合は結局、受益者がそれを負担することになるだろう。そうなった時のどこが「誰もが、いつでもどこからでも、誰とでも、自分らしく学べる社会」なのか。どうか、決して「(お金に余裕のある人なら)誰もが」ではない、お前の杞憂だと説得的に安心させてほしい。
こうしたロードマップの公開にあたって関係省庁がまず意を砕くべきは、捕らぬ狸の皮算用を並べることでも、「国が一元的にこどもの情報を管理するデータベースを構築することは考えていない」(p. 42)と責任を逃れるための(特定の民間企業が一元的にこどもの情報を管理する余地を生むような)注をつけることでもなくて、冒頭の私のディストピア妄想のようなことはないとみんなを安心させること、つまり中村(編) (2020)で大多和がeポートフォリオについて指摘した「学校が好ましいと考える方向に生徒を強く枠づけ」る行動統制の側面、つまり「設定された教育的な物語にはめられながら、しかも自主的な活動であるかのように自分を提示しなければならないという薄気味悪い側面」は出てこないよう徹底します、そんなふうには学校・自治体にも民間企業にも使わせない設計にします、と安心させることではないのか(中村(編), 2020についてはこちらの記事を参照されたい)。
こうして考えてみると、Amazonが私に、拙共著『英語教育のエビデンス』や拙編著『どうする、小学校英語?』の購入を薦めてくるのはまだかわいらしいものだと思う。検索やSNSでのつぶやき等をもとに私に関連性の高いものを表示するにしても、書誌情報の検索なのか、研究のための購入なのか授業のための購入なのか、誰かへの贈り物なのか、単なる興味本位の情報収集なのか、Amazonはカスタマーとしての私がこれらの本の著者だと同定できていないし、まだ私の検索の意図を区別できないからである。YouTubeやNetflixが使用状況に応じて次のコンテンツを推薦してくるにしても、視聴した海外ドラマのどこにグッと来ているかや、ふと湧き起こる「嗚呼、部屋を真っ暗にしてインターステラーのあのシーンに浸りたい」という思いまでは向こうには汲み取れない。それ故に痒いところに手が届かずイライラすることもあるし、だからこそまだ怖くないということもある。
資料のpp. 12–17の「教育データの蓄積と流通の将来イメージ」において意図的に無視されているというか、根本的に矛盾しているのは、学習者の立場でここに挙げられているメリットが発揮されるとすれば、「教育データ」はこのような形で埋もれたままではいられないということだ。匿名化された情報で「個に応じた支援」も何もない。各地の天候報告に基づく天気予報の精度向上やGPS情報に基づく渋滞・混雑状況表示のようなデータ活用は、教育行政のモニタリングや民間教育機関の商品開発にはある程度有効かもしれない。しかし、天気予報や道路情報のようなメリットが児童・生徒にあるだろうか。静岡市や名古屋市の特定のドラッグストアでMr. RAINIERのエスプレッソがよく売れるという情報は、私個人の特定は必要ないが、今後もMr. RAINIERを生産・配送し続けてもらうために私としても森永さんに届けたい(生産に影響を与えるほどの消費量ではないが)。教育において「教育データ」として児童・生徒が、民間教育機関・行政機関・研究機関に届けたいということなどあるだろうか。直接的にか間接的にかはともかく、教育データとしてなどではなく、学校や保護者とコミュニケーションをはかるべきことではないか。
このように考えてくると匿名化されたデータのメリットはもっぱら民間教育機関・行政機関・研究機関の目線でのみ考えられており、これが、児童・生徒や保護者、そして教員を置き去りにしたロードマップだということがわかる。だからこそ、資料p. 11に「個人情報の保護に関する法律(デジタル社会形成整備法による改正等を含む)において、法令に基づく場合等を除き、原則として、 本人の同意があれば、『ー』の主体にも 提供が可能。また、本人が特定されない匿名加工情報であれば、本人の同意なく第三者提供が可能であることから、この整理の限りではない」とか、「データは無体物であり、民法上、所有権や占有権、用益物権、担保物権の対象とはならないため、所有権や占有権の概念に基づいてデータに係る権利の有無を定めることはできない(民法 206 条、同法 85 条参照)。 そして、知的財産権として保護される場合や、不正競争防止法上の営業秘密として法的に保護される場合は、(中略)限定的であることから、データの保護は原則として利害関係者間の契約を通じて図られることになる」(経済産業省 「AI・データの利用に関する契約ガイドライン 1.1版」より抜粋) などと目立たないように断り書きが付されているのだ(下線は引用者)。
そしてそこには、データが匿名化されずに今以上に管理・統制に「利活用」されるリスクまである。だから、これがどれだけ実行に移されようと、児童・生徒はソーシャル・メディアに鍵のかかった別人格を複数用意し、今も部分的にそうであるようにむしろ自分の本音はそこで吐露して、利活用されるデータについては「公式」の装いをまとうだけだろう。かつての貴族がきらびやかな衣装と香水で諸々を誤魔化して見てくれを飾ったのと似たようなことが、彼らが「データ」だと思うものに関して起こるに違いない。今はまだ『うっせぇわ』がバズり、それに対する支持を表明することもできるが、やがてそれすら地下に潜るのだろう。学校内外でそんなことを書いたり言ったりすると、『うっせぇわ』を支持する者と記録され、データ提供されて利活用されてしまうから。ディストピアの完成だ。