[雑感123] Authenticity概念の分類から
8月末〜9月頭に参加したEuroSLAで、Multilingual Mattersの文献が30%程度の値段で売っていた。目ぼしいものをいくつかゲットしてきたのだが、これは読書会をしてもよいと思う。「”authenticity”の意味が言う人によって様々」問題にいい加減マシな整理を与えたい。
- Will, L., Stadler, W., & Eloff, I. (Eds.). (2022). Authenticity across languages and cultures: Themes of identity in foreign language teaching and learning. Multilingual Matters.
さしあたりKramsch先生の前書きと、Will and Pinnerの第1章を読んだが、これだけでも引き取って考えるべきこと盛り沢山で頭が満腹だ。(白人の)英語母語話者講師とバイリンガルの日本語話者講師とフィリピン人講師に値段の差をつけてアピールする日本の英会話学校の広告が取り上げられて、(企業名を”SenseiSabetsu”と言い換えた上で)痛烈に批判されていた。
Will and Pinnerは、(Willの研究に基づいて)これまでのauthenticityの議論を6つに分類している。(1) テクストのauthenticity、(2) テクストの受容のauthenticity、(3) 実世界との対応のauthenticity、(4) 教室のauthenticity、(5) 個人の振る舞いにおけるauthenticity、(6) 文化的authenticity。次いで、authenticityの政治的側面が取り上げられ、日本の英会話学校の広告が批判されているのはこの側面。そこでauthenticityの本質主義的概念と実存主義的概念が導入され、サルトルやハイデガーを引きつつ、哲学的概念としてのauthenticityが検討される。
前に日本教育学会で、英語教育に巣食うパーフェクショニズムが桎梏となってるよ的発表をした際、それはどちらかといえば各個人の実存主義的言語観の内にある課題を指摘するもので、(集合的な)本質主義的側面にはあまり目配せをしていなかったことに気づいた。英会話学校の広告に代表されるような形で現出する「母語話者主義」は、authenticityの本質主義的概念の側に根差している。母語話者を至上の存在として、完璧な言語の使い手でない限り自らは劣った存在だと考える言語(教育・学習・使用)観を脱却するためには、こちらも見なければならないんだな、と考えさせられた次第。