[本175] 榎本『学校英語教育のコミュニケーション論』
発表の予定もないので、8月24、25日の全国英語教育学会第49回福岡研究大会の参加はもともと計画に入れていなかったが、基調講演とシンポジウムを聴きに行くことにした。基調講演は、榎本剛士さん(大阪大学大学院人文学研究科)だ。
榎本さんの、
- 榎本剛士 (2019).『学校英語教育のコミュニケーション論: 「教室で英語を学ぶ」ことの教育言語人類学試論』大阪大学出版会.
を紹介する記事を書かねばと思いながら今日までずるずる来てしまったので、このタイミングで紹介しておきたい。
同書は榎本さんの博士論文に基づくもので、以下の4つの前提の下で、日本の高校の教室のフィールドワークから、「『生徒は、英語の授業中、何を学んでいるのか?』という(極めて素朴な)問いに対する明確な回答を与えることは、思いの外、難しい」(p. 224)ことを説得的に論じている。
(1) 「教室」で起きていることは、「個人の問題」ではなく、まずもって「社会的な問題」である。
(2) 「教師」で起きていることの「社会的な問題」としての側面が経験可能なものとして現れるところは、記号的行為としての「コミュニケーション出来事」である。そして、そこで社会的諸関係が生み出されるプロセスにおいては、「言語」を含む「記号」の使用が大きな役割を果たしている。
(3) 「教室で英語を学ぶ」ことそれ自体も、コンテクストにおけるコミュニケーション出来事に根ざしたプロセスとして捉えることが可能である、そのように捉えることが適切である。
(4) コミュニケーション出来事の「行為としての意味」や、それを通じて生み出される社会的諸関係は、そこで使われる「言語」をはじめとする様々な記号の「メタ・コミュニケーション」機能、すなわち、「再帰性」という特徴を通じて浮かび上がる(pp. 11−12)。
どのような立場であれ英語の授業を研究・実践する者に広く読まれるべき文献であり、刊行から約5年が経ってその重要性はますます増していると感じる。ナイーブ過ぎる認知主義で教室にずかずかあがり込んで第二言語習得の「研究」を気取る人たちには、100回くらい声に出して読んでもらってもいいぐらいだ。
本書は、ヤコブソンの言語機能モデルとハイムズのコミュニケーション論をベースに言語人類学の一般コミュニケーション・モデルを論じ、教育言語人類学という視座から「一つの教室で起こる『英語を学ぶ』という実践、および、そこで学ばれる『英語』それ自体が、いかに多様な『コンテクスト化』と『テクスト化』の過程の産物であるか、いかに多様な『コミュニケーションの層』に同時に投錨されたものであるか、さらにいえば、いかに複数の現実に根づいているか、という問題」(p. 65)を描こうとしている。
ご恵送いただいてすぐに拝読し、多くの箇所で共感したり「さすが榎本さん」と膝を打ってはいたものの、本書にどう応答するかということを私は判断できずにいた。しかし、ガート・ビースタの『よい教育研究とはなにか』を共訳しつつ、今年6月の中部地区英語教育学会で発表した内容をまとめてみると、改めて本書の価値が私に響くとともに、自身の立場が明確になった(ので、この記事を書く気になった)。
英語教員養成に携わり、複数の学校・自治体で先生方の英語の授業づくりを支援する立場からすると、本書は、(言語教育)社会学的な研究が問題にするアイデンティティや権力関係(の批判)を視野に入れつつも、あくまで授業の実際(とりわけ、そこで生じているコミュニケーション)に軸足を置いて、生徒にとっての「英語」がどのようなもので、それを用いて何を(学習)しているのかを問うているところが素晴らしいと思う。
他方、本書では、あるいは教育言語人類学という立場から榎本さんは、教室で起きていることの内「授業」に還元できないもの、すなわち生徒が授業に持ち込んでいる「外部」も教室での「コミュニケーション出来事」に見ようとしている。一方、そうした「外部」の存在を理解しつつも私は、授業研究の立場から(ビースタの論や文化心理学のアプローチを踏まえて)教える側の価値志向的な働きかけが生み出した授業に固有の「微視発生」過程にあくまでこだわって授業を読み解きたい。教育あるいは授業という現象の記号論的・再帰的性格を捉えている点では軌を一にしており、両者は、対立するというよりも相補的なアプローチだと言える。
その後の研究も踏まえて、榎本さんが基調講演で何を語るか、非常に楽しみである。