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[レビュー096] 岩野『贈与をめぐる冒険』

[レビュー096] 岩野『贈与をめぐる冒険』

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日本教育方法学会 (編)『教育方法学辞典』(学文社、2024年)で「贈与論」の項目を執筆したので、昨年の今頃は関連文献を読み漁っていた。特にお世話になったのが同じ著者の『贈与論: 資本主義を突き抜けるための哲学』(青土社、2019年)である(上記辞典で参考文献にも挙げさせてもらった)。ただし同書はそれなりに難解で、濫読を通じて、他の著者も含めて贈与論に関してとっつきやすい文献はないことも実感していた。

上記の項目執筆時はその存在に気づいていなかったのだが、本書は、コロナ禍を背景に、日常生活から「贈与」を語る入門書である。贈与論について最も面白い文献かと言われればそうではないが、今後しばらくは手頃な「最初の一冊」としてお薦めできる。私も、昔から疑問に感じていた戒名や供養の「値段」(が決まっていないこと)について、本書のギフト・エコノミーの節を読んで今さらながら納得を深めた。

ただ一方で、次のような一節に出会うと、分野が違うと解像度、あるいは読者を想定した慎重さは一気に粗くなるのだなあと思わざるを得ない。「中学生以下だったら校則について話し合う場はなくてもいいのかよ」というツッコミもさることながら、そう軽々と「教育とは贈与だからである」と言い切っていいかどうか、教育学者はみな逡巡し、あれこれと言葉を重ねたくなるに違いない。

ところで、校則なるものを意識したときに、理由はわからないがどこか反発を感じるとしたら、そのひとつの原因は、校則が『与えられたもの』だからではないだろうか。つまり、一方的に押し付けられているからではないだろうか。ここに贈与の問題がある。

学校が生徒たちの希望などとは全く関係なく校則を決めて、自分たちに従うように要求しているから反発するのだ。(中略)高校生ぐらいだと判断能力や社会性をだいぶ身につけてきているので、学校と生徒が校則についてもっと話し合う場があってもいいのではないだろうか。実際、そういう学校も増えていると聞いている。子供は成長していくにつれて、一方的に与えられるだけでは満足しなくなっていくのである。

しかし、だからといって教師と生徒が対等かと言えば、そうとは言えない。というのも、教育とは贈与だからである。生徒が自分で考えることができるように、学校は知識や技術を贈与している。だから、前章でも説明したとおり、贈与する立場の者が受け取る者より優位に立っているし、それをぼくらは当たり前のこととして受け止めているのだ。こういった関係のなかで、ときどき贈与が行き過ぎることがある。これが校則が問題となる理由だ。贈与の関係は変わらないかもしれないが、贈与のあり方を考えていくのが教師と生徒の話し合いなのではないだろうか(pp. 48−49)。

まさに私自身が、「かと言って『教育とは贈与なんだよ』と言って済むわけではない、というのが(教員養成上も実践上も)どこかで引っかかっていた」などと数年前に書き残している。マルセル・モースの解説を書いた訳者のような認識が岩野さんにないとは言わない(むしろあった上で上記の記述をしているとも思う)が、この入門書の書き振りにそこまでの奥行きを読み取ることは難しい。

理想的な「最初の一冊」ではあるが、贈与(論)を深く理解するためにこそ、違和感はスルーしないことを勧めたい。

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