レビュー
[レビュー097] 佐久間『教員不足』

[レビュー097] 佐久間『教員不足』

Pocket

まごうことなき名著。隙のない構成と、終始穏やかながら論理的で説得力のある筆致という点だけでも手放しに名著と言って良いが、(必ずしも教育に直接関わりを持たない)多くの人が手に取る新書というフォーマットで本書を世に出したという点で、「あらゆる教育学書が焚書の憂き目にあったとしても本書は何にも優先して護り伝えるべき」というぐらい名著だ。

名著であるだけでなく、授業であれ行政であれ、あるいは直接・間接の研究対象としてであれ、国内の学校教育に関わ(ろうとす)る者にとって本書は必読中の必読文献である。これから先、本書を踏まえずに国内の学校教育の問題(あるいは教員の養成・採用・研修)を勝手に論じている者がいたらモグリだと言っても良い。なぜなら本書で論じられていることが学校教育の一丁目一番地だからだ。私が普段ああだこうだ宣っている英語の授業の話とて、教室に先生がいなかったら始まらないのだ。

本書が指摘する通り、教員不足は「立体的で複合的な事象」であり、「原因と結果が一対になっているような単純な事象ではない」(p. 156)。最大の原因が、公務員の削減と義務教育費の削減による正規雇用教員の採用控えにあることが明々白々となっても、それがすぐに解決に向かうわけではないのがツラいところだが、まずは問題の立体性・複合性をできるだけ多くの人に認識してもらう必要がある。私自身、非正規雇用の実態がここまで多様であることは知らず、配置の法的根拠についても詳しくなかった(第3章)。教育(学)関係者にとっても新たに知ることは少なからずあるはずだ。

重要箇所を引用するとキリがないので2箇所だけ。

日本の場合は、教員の仕事がどんなに増えても、学級数が増えなければ教員の数を増やせない仕組みになっている。だからこそ日本では、教員の数を増やしてほしいという教育界の願いは、「少人数学級の実現」として表現されてきた。

ところが、2001年以降の財政改革の流れのなかで、財務省や同省の財政制度等審議会は、アメリカで進展してきた経済学にもとづく諸研究において、学級規模と子どものテスト学力との関連性が数量的に証明されていないことを根拠に、日本における少人数学級化の『効果』を否定し、教員定数を改善しなくなった。(中略)

しかし、日本において少人数学級化は、義務標準法のもとで、子どもの学習環境を改善する方法であると同時に、教員数を増やし教員の労働環境を改善する方法でもあるという、二重の機能を果たしてきた。このことは、本書が声を大にして指摘したい点である。(中略)日本においては、学級規模の縮小の効果を「学力」という指標だけで議論するのは不適切なのであり、教員の労働環境への効果も含めて総合的に検証され議論される必要がある(pp. 33–34)。

上記は、教育(学)的思考という意味でも、教育研究において問うべきことは何かという点でも示唆に富む。また、以下のような記述を読むと、私の頭の中にはディラン・トマスの“Rage, rage against the dying of the light.”が響くのだが、果たして先生方はどうだろうか。

国公立学校教員は、基本的人権の一つである労働基本権を1950年以降制限されている。労働組合は結成できるが、労働協約締結権は認められず、ストライキも禁止されているため、労働条件について実効性のある異議申し立てを行うことが難しい制度下に置かれてきた。教員の異議申し立てを許さないかわりに、人事院が民間給与との格差などを調査し勧告する制度によって、教員の給与を適正に保つ仕組みが保たれてきたのである。

しかし、国立大学が法人化された結果、国立大学附属学校に勤務する教員は国家公務員ではなくなり、人事院は学校教員の給与に関与しなくなった(それまで国は、国立大学附属学校教職員の棒給表に準拠して、全国の自治体の効率学校教員の給与総額を算出していたーー引用者注)。つまり、教員は労働基本権を制限されたままなのに、その教員給与を適正なものにする公的な仕組みまで、失われてしまったのである(p. 121)。

あなたがどんな形であれ教育に関わりを持っていて、いま一冊手にとる余裕があるなら、まず本書を選んでほしい。読めば誰かに薦めたくなるだろう。読んで理解したこと・感じたことを語って聞かせるのでもよい。そうして教育の外にいる人たちにも広げていってほしい。本当に、本当にお願いします。私にできることでその分もっと身を粉にして働くから、一生のお願い。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です