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[レビュー100] アタリ『教育の超・人類史』

[レビュー100] アタリ『教育の超・人類史』

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同時に『分解の哲学』や『万物の黎明』を読んでいたので、記述の薄さに何度も苦笑いしたが、第3章ぐらいまでは昔で言うグラハム・ハンコックやちょっと前で言う『サピエンス全史』みたいな気持ちで読み流せる。とはいえグレーバー&ウェングロウの視点に立てば、本書も、人類史について多くの「知識人」がルソー流かホッブズ流のモデルを再生産して垂れ流してきたのと同程度の粗さで教育を論じている、と一刀両断で批判されるだろう(第6章の日本についての記述を読めば、教育史や比較教育学を詳しく学んでいなくてもどの程度の解像度かはただちに分かるだろう)。

例えば佐久間は『教員不足』の中で、(自身の『アメリカ教師教育史: 教職の女性化と専門職化の相克』の知見を元に)「安い労働力を動員して教員数を確保する政策」によって「女性の安い労働力」が利用されたことを指摘している(pp. 193−194)。歴史を通じた女性の教育機会についてはたびたび言及があるが、『教育の超・人類史』にこうした教員の担い手に関する掘り下げた事実の指摘や比較は見られない。

アメリカ大陸やアジア圏に関する記述は薄くてもヨーロッパに関する記述は厚いのでは?と思われるかもしれない。そうでもない(フランスに関する記述のみやや詳しいのはだんだんかわいらしくも思えてくるのだが)。

例えば同書のフレーベルに関する記述を、藤原『分解の哲学』の記述と比べてみよう。

同年(1840年ーー引用者注)、フリードリヒ・フレーベル(スイスのペスタロッチの学校の教師になる前は教育玩具産業で働いていた)は、プロイセンの暴力を伴う教育を否定した。フレーベルは初の幼稚園である「一般ドイツ幼稚園」という構想を打ち立て、人格と協調性を育む教育手段としての遊びの概念を理論化した。

フレーベルはカイルハウ〔ドイツ中部の街〕に「一般ドイツ教育舎」という私立学校を設立した。家庭的な雰囲気のこの学校は、生徒を年齢で区別せず、全身を使った教育(頭、手、心)を施し、科学を重視した。次に、テューリンゲン州のバート・ブランケンブルクに「青少年活動センター」を設立した。

後ほど紹介するように、フレーベルの新たな教育はアメリカを含め、世界各地に多大な影響をおよぼした(pp. 251−252)。

以上である。一方、『分解の哲学』には次のようにある。

そののち、紆余曲折を経て、1839年、ブランケンブルクで、町の子どもたちが遊べる「遊びと作業の園舎Spiel- und Beschäftigungsanstalt」を設立。翌年6月28日、フレーベルは、子どもたちの楽園という意味を込め幼稚園と名づけたこの施設の設立式典を、ブランケンブルクで挙行した。女性幼稚園教諭の養成や玩具の販売とを組み合わせた幼稚園を運営するなかで、就学前の子どもたちの人格を、花壇や畑や室内での自由な遊びを通じて形成していくことを目標に据えた。当初の予定ほどは資金難でうまく実現しなかったけれども、1844年から幼稚園の理念の伝導活動を開始し、1848年3月の革命が彼のリベラルな幼児教育方法を後押しし、上昇気流を生み出す。フレーベルの弟子たちがヨーロッパ中に幼稚園を設置し始めるなかで、徐々に、幼稚園は人びとのあいだに知られるようになっていく。

子どもたちの自由な遊びのなかに教育の理想を見る幼稚園は、しかし、プロイセン政府からは社会主義的な、あるいは自由主義的な傾向と目され、信仰心のない子どもを育てるものとして白眼視される。1851年8月、すでに革命を鎮めたプロイセン政府は、幼稚園禁止令を発布。禁止が解けた1860年、フレーベルはもうこの世にいなかった。1852年6月21日、ニーダーザクセン州のマリーエンタールで70歳の生涯を失意のなかで終えていたのだった(pp. 79–80)。

『教育の超・人類史』にも1848年の革命に関する記述はあるが、話題は別のところに移っていて、幼稚園禁止令やフレーベルの死に関する記述は一切見られない。上記の記述にせめても、藤原が引用の直前に付している「工業化が進展し、母親が労働者として工場に通勤したり、子どもまでも労働力として用いられたりして、とりわけ労働者たちの家庭環境が大きく変わりはじめるなかで、子どもを預かることを主な目的とする従来の託児所では子どもの人格陶冶が阻害されることに危惧を覚えたフレーベルは、家庭教育や就学前の教育の重要性を痛感した、というフレーベル博物館館長のマルギッタ・ロックシュタインの分析は説得的である」(p. 79)といった解説が少しでもあれば、「暴力を伴う教育を否定した」というのがどういう意味で、「人格と協調性を育む教育手段としての遊びの概念を理論化」しようとしたのは何故なのかを考えながら読む手助けになったであろうに。

私は「じゃないほうの陽一」ではあるが、教育を専門にする者の責任として言っておくと、本書を読むくらいなら他の文献を読んだほうがいい。ということで、手にとらなくてよい本である(最後の「提言」が無意味とは言わないし、それでも本書を通じて、[フレーベルの幼稚園についての肝心なところでは記述のなかった]教育に対する宗教の影響の強さ・広さ・根深さは再確認したのではあるが)。

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