[雑感][旧記事] 英語教育における教育内容と教材の区別
以前の記事で,「教科内容」と「教材」を区別することの重要性に触れた部分を柴田(2010)から引用したが,「教科内容」あるいは「教育内容」という言い方は,英語教育学界ではほとんど耳にしない。例えば,森住ほか編(2010)は,「英語教育学」を次のように定義している。
英語教育学とは,もっとも簡潔に定義すれば,「英語教育の目的・目標・方法を研究する学問分野」である。目的とはなぜ英語教育を行うかである。いわば,英語教育の理念であり,英語教育は何のために行われているかを問題にしている。換言すれば,英語教育の理念論になる。目的を押さえたら,何を教えるべきかという目標を定める必要がある。これが目標論である。具体的には,言語材料や言語活動がその主な範疇となる。題材などの教材論もこの部分に入る。目標を定めたら,どのように教えるべきかを考える必要がある。この方法論は,一般に教授法・指導法と言われるものである。ここでは特に4技能が対象になる(Morizumi 2006)(p. 4,下線は引用者による)。
おそらく,ここで用いている「目的・目標・方法」というのはaim/objectives/goal/approach/methodsなどのどれかの訳語で,詳細はMorizumi (2006)を見るべきなのだろうが,ここでは省く。とにかく「(教育)内容」という言葉は登場しない。
- 柴田義松(2010)『柴田義松教育著作集4:教科教育論』学文社
- 森住衛・神保尚武・岡田伸夫・寺内一編(2010)『大学英語教育学:その方向性と諸分野』〔英語教育学大系:1〕大修館書店
そもそも上の定義が,どれくらい英語教育に携わる人の同意を得るか分からないということはあるが,私の見聞きする限りで大まかに言えば,英語教育関係者には,教育内容と教材の別なく「目的・教材(=内容)・方法」という捉え方をしている人が多い。他教科教育研究において教育内容と教材の区別が徹底され,それがclear-cutで,著しい成果をもたらしているというわけではない。が,教育学系学会とのつながりの薄さも手伝ってか,理科・数学・国語・社会などの各教科と比べても,この区別の有効性が知られてないように思う。ということで,「教育内容」と「教材」という概念系について詳述してみたい。
大人たちによれば,両概念を区別した功績は第一に柴田先生に帰されるらしい。最初に言ったのは誰かとか,柴田先生がいつ言い出したかとか,そういう「源流」を辿るのは本稿の意図ではない。両概念の導入にあたって,さしあたり柴田(1967)を出発点としてもよかろうもん,ということだ。
ここで,「教科内容」と「教材」とをまず区別しておかねばならない。
教科内容を構成するものは,科学教育の場合,一般的には,科学的概念である。科学的概念は,一定の体系の中で存在し,諸概念は相互に関連をもつ。それは,平面的に並ぶよりも,立体的に,場合によってはピラミッドのような形をなすものと考えられる。上部には,その科学の基本的なカテゴリーや指導的理論が位置し,底辺には科学の対象とする事実が存在する。その中間に,相互に関連をもった科学的な概念や法則の層がある。教科で,ある内容を教える場合,その内容(科学的概念)が,この科学の立体的構造の中でどのような位置にあるかを明らかにすることは重要な意味をもつ。いいかえれば,それは,概念の構造を明らかにすることである。
さて,それら個々の科学的概念を習得させるうえに必要とされる材料(事実,文章,直観教具など)を,「教材」とよぶ。
教科(あるいは科学)の対象となるものは,もともと現実の事実である。この事実をできるかぎり単純な要素にまで分析し,いろいろな条件を捨象していくので単純であると同時に抽象的な,また同時に一般的・本質的な要素の学習からはじめて,しだいに複雑で具体的な現実の全体的理解にまですすむようにしようとするのが,教科内容編成の分析・総合方式である。ところで,その個々の要素あるいは概念そのものは,つねに具体的・特殊的な事実と結びつけられ,それらの観察や実験などに基づいて学習されねばならない。
(中略)
内容はすべて教材をとおして学習される。しかし,教科内容の編成と教材の選択や配列とは,このようにいちおう次元の異なる仕事として区別されるだろう。
この相違を,経験主義の教育学は無視しがちである。なぜなら,教科の体系を科学の体系からではなく,子どもたちの生活経験から導きだそうとする経験主義の教育においては,経験的事実(教材)の学習をとおして,何(どのような科学的概念・法則)を子どもにつかませようとするのか,はっきりしないことが多いからである。だから,たとえば学習指導要領で「内容」とされているものが,たんなる経験的事実(教材)にすぎないことはすくなくない。事実でなければ,逆に一般的な目標とかわりないようなものになっている。国語・社会科・理科の「内容」は,ほとんどこのようなはっきりしない性格の「内容」でうまっているのである(pp. 14-16,下線は引用者による)。
特に後半の下線部は,「外国語」・「英語」学習指導要領の「内容」にも当てはまってきたし,今も当てはまる部分があると思うのだが,どうだろうか。
- 柴田義松(1967)『現代の教授学』明治図書〔(2010)『柴田義松教育著作集1:現代の教授学』学文社に所収。引用箇所はpp. 18-19に〕
こうした考え方が外国語教育研究になかったわけではない*1。
例えば,Noblitt (1972)やCorder (1973)を嚆矢とする「教育文法」(pedagogic(al) grammar)という概念がある。これはもともと,言語学的な分析の結果を直接シラバス開発や文法教育に当てはめようとするのは浅薄だという見地から,聞き手・読み手に応じた文法記述の必要性を訴えたものである(Stern 1983: 175-7; Stern 1992: 131-2)。Noblitt (1972)やCorder (1973)が論じたことの紹介は省くが,「言語学的研究成果(≒科学的概念・法則)と教育実践(≒教材)の仲介役を担うもの」という意味で,こういった仕事は,柴田(1967)の言う「教科内容の編成」に近いものと言うことができる。ただしCorder (1973)は,「『教育文法』としての教師」という言い方もしており,教育内容や教材の概念が明確に意識されているわけではない(Corder 1973: 346-8))。
Stern (1992)は,この「教育文法」研究の成果を踏まえた上で,文法指導の基礎をなす概念の諸レベルについてモデルを提示している(Stern 1992: 131)。Stern (1992)のこの整理は「文法」という言葉のもとの混乱を解きほぐすのに極めて有効だが,レベル4で彼がイメージしているのは,Celce-Murcia and Larsen-Freeman (1984)のような外国語の教師向けの文法解説書である。一方のレベル5には,教育内容としての「教授文法」(teaching grammar)・「学習者文法」(learner’s grammar)や,「文法シラバス」(grammatical syllabus),教材(course materials)とそれを用いた実際の授業までもが含められているため,教育内容と教材の区別は明確ではない。
柴田(1967)のような教育方法学的区別に近いものとしては,小山内(1985)がある。小山内(1985)は,「科学文法」に対する「教育文法」を「英語学習が,より多くの生徒によって,より速く,より愉快に,よりたやすく行われるようにするための,『縁の下の力もち』的文法」と性格づけ,その作成に際しては,「学習者によって内面化され言語運用の基礎となる文法の内容はどのようなものであるべきか」という言語学的側面と,「それをどのように教材・教具化するか」という教授学的側面に注意が向けられなければならないと述べている(小山内 1985: 231-2)。Stern (1992)の図と対応させれば,小山内(1985)の言う言語学的側面はレベル3からの組み換えに,教授学的側面はレベル5への組み換えに概ね該当すると言えるだろう。
- Noblitt, James S. (1972). “Pedagogical grammar: towards a theory of foreign language materials preparation.” IRAL 10: 313-31.
- Corder, S. Pit (1973). Introducing Applied Linguistics. Harmondsworth, Middlesex: Penguin.
- Stern, Hans Heinrich (1983). Fundamental Concepts of Language Teaching. Oxford: Oxford University Press.
- Stern, Hans Heinrich (1992). Issues and Options in Language Teaching. Oxford: Oxford University Press.
- Celce-Murcia, Marianne and Larsen-Freeman, Diane (1984). The Grammar Book An ESL/EFL Teacher’s Course. Rowley, MA: Newbury House.
- 小山内洸(1985)「『教育文法』の内容と方法」黒川泰男・小山内洸・早川勇『改訂版 英文法の新しい考え方学び方:日英比較を中心に』三友社出版,pp. 210-63.
あまり抽象論を続けてもアレなので,前の投稿で触れた進行相の教授=学習を例に,具体的なご利益について考えてみたい。
進行相の「教育内容」とは,端的に言えば,さまざまな用例を通じて,「『BEの変化形+動詞のing』の形であり,活動がすでに始まっていて,終わりに向かって進行しているが,まだ終わってはいないということを意味する」ことを理解し,適切な文脈において産出できるようになってもらうことだと言える。
もちろん,いきなりこんな一般的言明を説いて聞かせたところでほとんど全く用をなさない。そこで具体化して教育内容の構成を考えることになる。進行相は動詞(というか述部)が表す事態によって意味が変わってくるので,どれをどういう順序や対比で導入するかを考えなければならない。
- The bus is stopping. (持続・完結) →まだ止まっていない
- He is reading the magazine now. (持続・非完結) →ある程度読んでいる
- He is tapping his pen on the table. (瞬間) →繰り返しコツコツやっている
- He is living in Shizuoka. (状態) →一時的に住んでいる
そうすると,先頭の「到達点があってまだそこに到達していない」という用法は,「その途中」という事態が掴み易く,「活動がすでに始まっていて,終わりに向かって進行しているが,まだ終わってはいない」の入り口としていいのじゃないか,という仮説が立てられる。で,「その動作を継続しているところ」というのと対比して,一瞬で終わる動作をわざわざ進行相で使う時にはどういう意味になるかを考え,単純現在との対比で「一時的な状態」という用法に気づいてもらってはどうだろうか,なんて流れが作れる。
で,そもそも最初に,「進行形」の形と存在を認識してもらわなきゃならんけど,単純現在は直近の未来も表せるし,対比するとかえって違いが分かりにくいな。よし,(過去時制は既に指導してあるので)単純過去と過去進行形との対比でいこう。「溺れかけたが,助かった」なんてどうだろう。
- (a) Yoichi drowned, but his girlfriend saved him.
- (b) Yoichi was drowning, but his girlfriend saved him.
あとで友だちが事件を英語で伝えるとして,(a)と(b)のどちらを用いるべきか考えてもらえば,”drowned”だと「溺れ死んだ」になっちゃうから,後半の節と矛盾することが説明できる。(b)だと「すでに溺れ始めていて,『溺れ死に』に向かって進行しているが,まだ溺れ死んではいない」ということがクリアだ。もちろん一般的な説明はするとしてももっと後にすべきだろうけどな,なんて内容構成論がまとまってくる*2。
問題は,この説明や順序が適切かどうかではない。これは主として「教育内容」についての議論であって,「教材」について論じているのではないということが言いたいのだ。
もっと別の例文や対話を用いるべきだという意見もあろう。(a)-(b)の対比についても,「DROWNじゃアレなので,WINとかLANDを使った方がいい」という声が出るかもしれない。そもそも,もっと別の活動を組織してその中で導入すべきだという立場の人もいるだろう。しかしそれは,上の教育内容構成論とは必ずしも矛盾しない,上述の「進行相」の定義と各用法を教える/学ぶ順序についての仮説を受け入れるのであれば,そういったやり取りは全て「教材」についての議論である。ある教育内容を理解させるための迫り方は当然ながら多様であっていいので,こっちの教材がいい,あっちの活動がいい,とキャッキャキャッキャやればいい。いずれも,研究としてはその教育内容についての仮説を評価・検証しようとしているとみなすことができる。
一方で,そもそも進行相,あるいは時間表現の体系の捉え方が違うとか,用法の整理にしろ配列・対比にしろ「俺のとは違うなぁ」という議論もあるだろう。それは「教育内容」の構成・編成についての議論である。目標・評価論と相まって,英語科のカリキュラムを考える上で欠くべからざる侃々諤々である(教材論についての議論がどうでもいいということではない)。
ただし,実際的には,教育内容と教材の区別はそれほどclear-cutではない。上述の進行相の指導過程について「主として『教育内容』についての議論」だと述べたが,それは,例えば「(a)と(b)のどちらを用いるべきか考えてもらう」というのが既に「問題」(英語教育界でよく使用される言葉で言えば「発問」)として教材のレベルまで具体化されているからである。板倉(1988: 74)の言うように,教育目標(この場合,「進行形とは『BEの変化形+動詞のing』の形であり,活動がすでに始まっていて,終わりに向かって進行しているが,まだ終わってはいないということを意味する」ことを理解し,適切な文脈において産出できるようになってもらうこと)を明確にしようと思えば,結局具体的な問題(群)を作る(この場合,第一問としては,持続・完結の意味の動詞を用いた過去進行形の例文を,同じ動詞を用いた単純過去の例文と対比する)ことと同じことになるという側面はある。それでも,両者を区別しておくことに意味はある。
- 板倉聖宣(1988)「授業書のつくり方」『仮説実験授業の研究論と組織論』仮説社,pp. 68-92.
基本的に,英語教育の内容・方法研究において有効な理論的概念としてここまで説明してきたが,個人としてであれ組織としてであれ,教師が授業を計画・実施・評価する際にも知っておいて損はない区別だと思うのだが,どうだろうか。
実質的には,研究者にしろ現場の先生にしろ,教育内容・教材といった用語を使い分けていなくても,そのどちらか,あるいは両者の研究・実践を日々積み重ねている。ただ,冒頭で引用した森住ほか編(2010)のような概念系だと,ある授業で上手くいった要因を,あるいは上手くいかなかった要因を,教育内容(構成)に帰すべきか,教材に帰すべきかが分からないままになりかねない。学会などでの発表を聞いていても,「教材論は分かったけど,肝心の教育内容はなんなの?」とか「教材がちょっとアレだっただけで,教育内容構成は悪くないと思うんだけどな」(あるいはその逆)などと思うことが少なくない。さらに言えば,「どうやって」教えるかということは「何のために」,「何を」教えるかによって(そしてその相互連関において)決まるのであって,「言語材料や言語活動」が所与のものとしてあるわけでも,「教授法・指導法」からトップダウンに決まるものでもないはずだ。
私は,「教科内容」という言葉が持つイメージよりも小さい,例えば「単元」やその一部のレベルでも内容構成があり得るし必要だと考えるので,「教育内容」という言葉を用いている。英語教育研究においてこの概念と「教材」を区別することの意義は,結局研究を通じて示していくしかないのだろうなと思いつつ,一つ前の投稿や以前の投稿の補足を兼ねて吠えてみた次第。ゼミ生のための資料を兼ねる。
*1 この辺りの議論は,拙博論でもう少し詳しく展開しました。ぐへ。
*2 この理論的考察は,仮谷卓(1987)「進行相指導の一つの試み:動詞のアスペクト特性の考察から」『教授学の探究』5: 14-41.に基づく。