[本][旧記事]『荒木飛呂彦の奇妙なホラー映画論』の奇妙じゃない映画観
いわゆる「ホラー映画」はあまり好きではない。昔からゾンビ・死霊ものや(最近よくある)正体不明恐怖系の映画が好きになれないし、あるいは『SAW』なんかも、悪趣味過ぎるのが良くないのか、1しか観てない。
だから、
- 荒木飛呂彦(2011)『荒木飛呂彦の奇妙なホラー映画論』集英社〔集英社新書0595F〕
は当初、ジョジョを愛する者として帯や挿絵目当てに購入した。
しかし、これは大きな間違いであった。というよりも、私の「ホラー」に対する理解が浅かった。上述の典型的な「ホラー映画」にとどまらず、『セブン』や私の好きな『キューブ』、さらには実際の心理実験をもとにした『es(エス)』や、トム主演のSF『マイノリティ・リポート』、ハビエル・バルデムの怪演でアカデミー賞4冠を受賞した『ノーカントリー』までもが次々取り上げられる。
なにせ本書は、(ガボレイ・シディベの主演という部分ばかりが日本でも話題になった)『プレシャス』についての記述から始まる。確かに『プレシャス』は観ている最中も、観終わってもスッキリした気分になどならない。われわれが勝手に教育と福祉の問題を考えるにしても、まずは暗澹たる気持ちに打ちのめされるしかない作品だ。だから「ひたすら『人を怖がらせる』ために作られている」という点で『プレシャス』はホラーなのである。
この観点から、「エンターテイメントでもあり、恐怖を通して人間の本質にまで踏み込んで描かれている」と著者が感じた作品を軸に、様々な映画が自由に、独自の目線で切り取られている。純粋に映画論としても面白い。
私が特にズキュウウンッと来たのは、『アイ・アム・レジェンド』と『28日後…』の評価。
『アイ・アム・レジェンド』は、フツーに「ウィル・スミス先輩の映画」として観てしまったが、本書を読んで、デート・ムービーとしては微妙だと感じられた理由、そして作品としての仕上がり(まとめ方)にどこか違和感があった理由がよく分かった(ざっくり言えば、前者は上に示した荒木流の意味で「ホラー」だったから、後者はそれを貫けなかったから)。
『28日後…』は試写会で観たのだが、その時の司会のアナウンサーはこの作品を「『トレインスポッティング』で一躍脚光を浴び、『ザ・ビーチ』でその真価を問われたダニー・ボイル監督が放つ、新感覚サバイバル・ホラー」といった位置づけと言葉で紹介した(ダニー・ボイルは後に『スラムドッグ$ミリオネア』でアカデミー賞を受賞)。この微妙な紹介が全てを物語るかのように、上映後の場内は「うーん、イマイチ…」という空気だったのを覚えている。それに対して本書では、この作品の何がスゴいのか、どこがホラーであるのかがアツく語られている。当時、荒木先生が司会だったら場内の空気は違っていたのではないだろうか(最近マンガで流行のカタストロフもの、特に花沢健吾『アイアムアヒーロー』などをそのまま先取りしているとも言えるのだから)。
欲を言えば、『トゥモロー・ワールド』(2006)や『ザ・ロード』(2009)、あるいはケン・ローチ監督の一連の作品のホラーっぷりについても荒木先生の解釈を読みたかったところである。
最後の「あとがき」がまたシビれる、憧れる。一部だけ引用しておく。
芸術作品は「美しさ」や「正しさ」だけを表現するのではなく、人間の「酷さ」だとか「ゲスさ」とか、そういった暗黒面も描き切れていないと、すぐれた作品とは絶対に言えません。
恐怖映画は一見すると、暗くて不幸そうで、下品で、その上変な音楽まで流れていてレベルが低そうであり、異様な雰囲気さえ持っています。しかしすぐれた恐怖映画は、きちんと観てみると精神の暗部をテーマにしていて挑戦的な映画とも言え、どの場面もカット編集や変更ができないほど脚本や演出も完璧なまでに計算構築されています。そして本当にすぐれた作品は何よりも――これが大事な要素なのですけれども――「癒される」のです。…(中略)…
僕はやはり、「恐怖」を表現するあらゆる芸術行為は人間にとって心や文化の発展に必要なのだと思います。そして僕はそうした行為が、後の時代に振り返れば、結果的には文明の発展にさえ必要なのだと思っています。
うーむ、さすが。荒木先生は、ミヒャエル・ハネケ監督の『白いリボン』や園子温監督の映画をどういう風に観たのかな。