[雑感041] ただ薫るに任せればよい(その薫りが本物だと信じるならば)

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前記事([雑感040])の補遺。「名が何なのかではなく、それが本物のバラかどうかが大事だ」ということと、それと実践研究との緊張関係みたいなこと。

先の寓話は、どのような教授法も、それ自体に良いも悪いもなく、無批判に絶対化した瞬間にお題目になって終わるだけだということの誇張である。「アクティブ・ラーニング」(AL)であれ、Presentation-Practice-Presentation (PPP)やTask-Based Language Teaching (TBLT)であれ、「下手の考え休むに似たり」の人がやるなら何をやってもどうせろくなことにはならない。そうじゃない実践者は、おそらくは後に名前が付くやり方に最初に辿り着いた人を含め、どういうラベルだろうと(そもそもラベルにこだわりがなく)授業のねらいやそこでの言動の選択は首尾一貫しているものだ。以下の記事も基本的には同じことを言わんとするものだろう。

ただ、この話の「創始者」という始まり方とその位置づけが好きではない。何かを始めた人がいれば「創始者」がいるのは必然だが、その存在が大事になるようなものはちょっと違う感じがする。研究・教育は信者になられてもなってもおしまいだと思うから。カッコつけた言い方をすれば、絶えざる批判に向き合い続け自らも変わっていく暫定王者としての仮説や枠組みにのみ「理論」としての意味がある。

前の記事にもう一つ付け加えておきたいのは、この手の教授法を喧伝する際に、他の教授法を貶めることによって自らの存在意義を主張する論法の不毛さだ。

仮に認識論的に対立する教授法だとしても、その適否は具体的な目的と(限られた時間の配分といった)諸条件に照らして初めて判断できることであって、「役に立たないシェイクスピアを授業で読まされて」というのは、例えば英会話学校で、仕事のためにできるだけ早く話し言葉として英語を聞き話せるようになりたいと思っている人たちであれば真っ当なクレームかもしれないが、望んでイギリス文学を学ぶ学生がのたまっても彼の無教養と不見識をさらすだけだろう*1。さらに実用目的の語学学校であっても、TBLTがいくらGrammar-Translation Method (GTM)あるいは「文法訳読」式授業を批判しようと、求める仕事が翻訳・通訳で、そういうESP (English for Specific Purposes)の授業であれば当然、何らかの形で文章を訳して文法的な解説をするのではないか?全てを一緒くたにして、ALが「受動的学習」を批判しようとすればするほど「いっそ座学で集中して学んだほうが有効な知識」のリストができるだけだ。

つまり、ある何らかの理論に裏打ちされた教授法があったとして、その実践的影響を主張したければ、自らの拠って立つ原理とデータによってのみそれを論じればいいのであって、別の理論や認識論に基づく教授法の問題を殊更あげつらう必要はないのだ。

なぜなら、目的・文脈に依存しない唯一無二の完璧な教授法など存在しないのであって、それぞれに適切な方法を選んだり(必要かどうかは別にして)別の教授法と比べたりするのは、それを用いる教師やその授業を受ける学習者に委ねるべきことだからである。使う側がそういう認識論を持たなければ、上記の引用記事にあるように、実害の程度はともかくその劣化コピーを量産するだけだ。

加えて、他の否定によって自己の優越性を主張しようとする論法は、往々にして自己の課題に目をつぶりやすく、我田引水合戦やフォロワーによる絶対化(裏を返せば非フォロワーのネガティブ意識)を招くという問題もある(保城, 2015でいう「プロクルーステースの寝台」問題)。実践研究として何らかの一般的言明を与えるとしても、それぞれの教授法の利点と課題を個別に並べ、更なる実践に選択や判断を委ねるほうが建設的だ。

教授法の比較が無駄だと言いたいのではない。例えば、昨年度の卒論でゼミ生がFocus on Form (FonF)型の授業とPPP型の授業を比較する実験授業を2クラスの中学生に対して実施した(Amano, 2016)。授業後のアンケートで、授業の満足度(楽しさ)と手応え(話したかったことを話せたかどうか、話せた感)を5件法で尋ねたところ、下図の結果が得られた。見本のような交互作用が確認されたわけである(統計的分析はこの研究の主たる目的ではないが、参考までに二元配置の分散分析の結果も載せておいた。Mizumoto, 2015)。

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ただ、もしこの1回の授業の結果をもって「FonF型の授業のほうが、PPP型の授業より楽しいと感じてもらえたっぽい」とか「PPP型の授業のほうが、FonF型の授業より話せたという手応えを与えられたっぽい」という結論を引き出して終わったとすれば、彼は自分の卒論に満足しなかっただろうし、私も合格を出さなかっただろう。厳密な統制をした実験研究ではなく、偏りのあるサンプルで、そのような浅い一般化をする実践研究に何の意味があるというのか。

上図が示しているのは、2つの授業がいずれも生徒に最低限、肯定的に受け入れられた授業だと言えそうだということであり(程度の低い授業との比較による主張など恥ずかしいだけ)、2つの指標における両授業の異同をもたらした要因を考察することに実践的意味がありそうということだ(なんの違いも見いだせないのであれば、検討している観点がズレているか、比較に意味がない)。上記の結果は考察の前提を示すものであって、結論ではない。

そもそも彼がこの2つの授業を比較したのは、中学生にFonF型の授業を実施する際の課題を明らかにしたかったからである。経験ある教師の授業を目の当たりにして(研究課題の設定当初は見えていなかった)授業の様々な側面に気づき、映像の分析も含め、得られたデータの範囲で当該授業の課題と展望を述べ、実践者としての認識論を鍛えていく、そういう意味において教授法の比較に意味がある。保城 (2015)の整理を借りれば、仮説演繹法としてのではなく、アブダクションとしての実践研究ということになるだろう。いずれにしても、「名前がなんと変わろうとも、薫りに違いはないはず」(中野(訳), 1951, p. 69)の、そのバラの「薫り」があるとすれば、それを示すのに他の花を踏みにじる必要はどこにもない。

*1 あえて火に油を注ぐようなことを言えば、イギリス文学を専攻する学生でなくても、tasksと称して中身の乏しい買い物ごっこをやるぐらいなら、シェイクスピアの作品を読んだほうがまだしも人間や社会について多くを学べると主張したって良い。それを扱う先生の授業が下手だったとしても、少なくともテクストは嘘をつかないし、相手は400年もの歴史に耐えた文化遺産なのだ。「そんなことは(こちらの)英語教育の目的ではない」と言われてしまえばそれまでだが、同程度の英語運用能力の人がいたとして、冒頭のバラのくだりを読んだ時に『ロミオとジュリエット』が全く浮かばない人よりは浮かぶ人のほうが(英語の)世界をより広く知っているのは確かだ。

References:

  • Amano, T. (2016). Effects and problems on the enforcement of activities based on FonF in English class for junior high school students (Unpublished undergraduate thesis). Shizuoka University, Shizuoka, Japan.
  • 保城 広至 (2015).『歴史から理論を創造する方法: 社会科学と歴史学を統合する』勁草書房.
  • Mizumoto, A. (2015). Langtest (Version 1.0) [Web application]. Retrieved from http://langtest.jp
  • シェイクスピア, W.(中野 好夫 (訳))(1951).『ロミオ&ジュリエット』新潮社.
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5 thoughts on “[雑感041] ただ薫るに任せればよい(その薫りが本物だと信じるならば)

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      ちょっと気になったんですけど、シェイクスピアはマテリアルの話ですよね?シェイクスピアを題材にタスクって出来るので、マテリアルとしてシェイクスピアを使う良し悪しはタスクとか文法訳読とかいう教授法の話とは別軸にあるんじゃないかと思います。
      余談ですが、文学専攻の友人にタスクの話をしたところ、「文学のゼミってタスクやなあ」といって興味を示していました。

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        確かに教授法の是非の論じ方の話に教材の話を入れ込んでいるのですが、ここで言わんとしているのは、脱文脈的に、アプリオリにこの教材、この教授法なら絶対良いという話をしだすと残念になるということで、クリーシェのごとく言われるシェイクスピア云々を皮肉的に例としたのです。シェイクスピアの作品そのものというよりは、「役に立たないシェイクスピアを授業で読まされて」で文法訳読式的授業を表現していると思ってください。私は「教育内容・教材が(適切な)教授法を規定する」という立場なので、「シェイクスピアを題材にタスクって出来る」と言われても「理論的にはそうだろうね」以上のことは思いませんが。

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      この主張の骨子は理解しているつもりですし、上記のコメントはその中核のご意見に対する批判でもないです(というか同意しています)。またその上で文学教材をタスクに使うことが理論的に可能であることを説き伏せたいわけでもないです。いまさら先生にそんなことを力説しても釈迦に説法でしょうし。
      ただ、上記の軸が交絡して見えるところがあるということでした。よくタスクの人と文学の人にこのような対立があるという話を聞くので、本当の対立はその二軸でないことの例を挙げた次第です。ビュー数の多いブログですので、その対立軸の存在を念頭に置く方も中にはいると思いまして、あえて本文の論旨からズレている内容でも少し補足をさせて頂いたとご理解頂けたら幸いです。

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        さらに言うと、教材と教授法の組み合わせは柔軟であることが理解された方が、このような不毛な罵り合いが減って建設的な議論が行えるのではないかと思ったのです。ここで言ってることは先生と全く同じなのですが、そこが交絡してしまうとこのエントリの主張とは反対の理解が生まれてしまうので。

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