[本065] 大学英語教育の矜持(山中ほか, 2021; 森田・榎田(編), 2021)
パイがそれほど大きいわけではないので(と書くと、ほとんどの大学に英語の授業があるという意味でお前らは恵まれていると怒られそうではあるが)、専門家が一般向けに英語学習法を問いた新書や小中高の先生向けのカリスマ教師の実践本のようなバズり方はしないものの、大学英語教育の優れた、或いは先進的な取り組みが書籍として刊行されることはたびたびあり*1、業界内ではそれとして参考にされてきた。その中で一線を大きく画す2冊を紹介したい。
大学で英語教育に携わる者がいま真っ先に読むべき一冊が、
- 山中 司・木村 修平・山下 美朋・近藤 雪絵 (2021).『プロジェクト発信型英語プログラム: 自分軸を鍛える「教えない」教育』北大路書房.
である。立命館大学の4学部で実施されている共通英語プログラムに関する報告ではあるが、取り組みの背後にある理念や実践の工夫を余すところなく開陳しており、「はじめに」に書かれている通り、個別を通じた、大学英語教育全般に対する「『建設的』提言の書」となっている。特に必読の「第1章 今のままの英語教育ならもういらない」は、ふだん明け透けに物を言う私が「そこまでハッキリ言いますかw」と思うぐらい現状に対する危機意識とその構造的問題を明確に言語化しており、告発の書と言ってもよい。
この、本書を優れた実践自慢、つまり「立命館大学(の一部)すごいねー」で終わらせない覚悟が、類書と明確に異なっている。ローティを引用しての、「希望としてのより大きな間主観性な合意や、共同社会の連帯を可能にするため、『永遠の非人間的な拘束に従属することではなく、むしろ可謬的で一時的で人間的なプロジェクトに参加すること』(Rorty, 1982=1985, p. 369)を強調した」(p. 52)との言にその姿勢が示されているように、複数の学部・学科にまたがって、専門部署がなくたって、プログラムとして我々はここまでやっていますよ、おたくはどうですか?と挑戦状を突きつけられている気がする。機器やソフトが先にあってそれをどう「活用」するかに翻弄されているGIGAスクール云々の現状に対しては、「第5章 英語×ICT教育の可能性」はぜひとも小中高の関係者に一読を勧めたい。ICTを用いた授業が5節の表5-6のような整理のもとで進められれば、議論はずいぶんマシになるだろう。というか、これを標準にしたい。「英語=ツール論を超えて」(pp. 66–77)の議論も、大学を超えて、英語教育全体の議論として受け取り、検討すべきであろう。
ただし一点留保をつけておく必要があるのは、公教育における英語教育論としては、ネオリベラリズム的な経済優先の価値観を受け入れ過ぎのきらいがあるということだ。「外国語の習得とは、あくまで自国民の利益を最大化させるための戦略的な戦略であ」(p. 29)るという議論に、そう考える人たちがいて、それによって動かされてきた政策があるのが事実だとしても、小中高の英語教育の目的論を乗っけようとは少なくとも私は思えない。「英語を教養か実用かという二項対立で捉える構図そのものがもはや時代にそぐわない議論」だとしても、英語が「共通言語として事実上標準化している」のが普遍というわけでもないし、その事実がわれわれの外国語教育目的論を直ちに規定するわけでもない(p. 10)。「日本人の一体何人が、アメリカ人を負かし、アメリカの上に立つことを目的に英語を学んでいるだろうか」(p. 30)と問われても、勝ち負けや人の上に立つことを目的として私が言語教育を考えたことはないし、今後もそうすることはない。本書で展開しているプログラムにとっては有効で必要な価値観かもしれないが、読む上では、それだけが外国語としての英語教育観ではないという批判的視点を求めたい。
本書のもう一つの特徴は、上記5章の6節において、2020年のコロナ対応が報告されていることだ。それを一冊に渡って全面展開したのが、
- 森田 光宏・榎田 一路(編) (2021).『コロナ禍の言語教育: 広島大学外国語教育研究センターによるオンライン授業の実践』渓水社.
である。オンライン・対面、あるいはその混成授業をどう考えるかや、2020年度の状況にどう対応して授業を展開したかの報告は、私も含め、あちこちでなされた。しかし、個人のレベルではなく、組織的な英語教育(とドイツ語教育)の取り組みとして、ここまで詳細にオンライン授業の準備・内容・方法・運営・評価を記録し、他組織・個人が参考にできるように知見を開いているところが、類書と明確に異なり、「広大外国語教育研究センターすごいねー」に止まらない厚みを感じさせる。今後の大学英語教育とオンライン授業の関係がどういうものになろうと、本書は貴重な記録と参照点になるだろう。
まず感心したのは、「第1章 2020年度広島大学語学教育オンライン授業の道のり」での応答責任の果たし方だ。それは広大外国語教育研究センターがこれまで積み重ねてきた実践・研究の延長線上にあるものとも言えるが、状況に翻弄されながら何とかやっていたあの日々に、ここまで克明に対応を記録し、事後の検証に耐え得る形で整理していたということに驚嘆する。仮にメンバーに入れ替わりがあったとしても、センターが提供する外国語教育プログラムを場当たり的なものにしないという強い意志が感じられる。翻ってわれわれは、教育実習、あるいはその代替プログラムについて、同様の意志を持って応答責任を果たし記録を残してきただろうか、と考えてしまった。仮に本書と同様の取り組みがあちこちで動いていれば、『コロナ禍の教育実習』という本があって、今の状況に対する指針の一つとなっていたのではないか。
「第4章 コロナ禍の非同期型オンライン授業に求められる機能とその実装例」を最も興味深く読んだ。外国語そのものとの関連性の薄いゲーミフィケーションのやり方が好みではなかったりはするが、「教員の労働時間は限られており、その制約がある限り、必ずどこかの側面において妥協せざるをえないということ」(p. 99)を踏まえた外国語教員集団としての意思決定の一つのあり方が示されている。とかく英雄主義的な、あるいは根性主義に依存した問題解決がはびこりがちな教育界において貴重な報告であり、小中高の先生がたにも参考になるところが少なくないだろう。コロナ禍が落ち着く兆しは見えず、また落ち着いたとしてもICT機器との関係は深まらざるを得ないと考えれば、音声・動画教材の作成について解説した第5章は、大学のみならず小中高の先生がたにとっても極めて有用なマニュアルの役割を果たすだろう。もう少し手に届きやすい値段であればよかったところであるが。
*1 古くは、
- 竹蓋幸生・水光雅則 (編) (2005).『これからの大学英語教育: CALLを活かした指導システムの構築』岩波書店.
- 富山 真知子 (編) (2006).『ICUの英語教育: リベラル・アーツの理念のもとに』研究社.
- 大学英語教育学会授業学研究委員会 (2007).『高等教育における英語授業の研究: 授業実践事例を中心に』松柏社.
など。最近でも、
- 佐藤 響子・Carl McGary・加藤 千博 (編) (2019).『大学英語教育の質的転換: 「学ぶ」場から「使う」場へ』春風社.
を読むと、「横浜市立大、がんばっとるなー」と素直に思うは思う。